『ハンス・ヨナスを読む』を読む①

河童たちの給料は1日1本のキュウリだけ

人間より知的な生命がいないのは人間より知的なら同意なき出生を道義的に認めることができず、自ずと種の絶滅へと歩むしかないからだ。そしてかつてそれを体現した生命がいた。河童である。河童は急速な近代化に伴い、清らかな河川が消失したことで住処を追われたわけでも、ましてやかっぱ寿司に奴隷として拉致されたわけでもない。河童は自らの意志で絶滅を選択した。それは芥川の記した河童の見聞録からも垣間見れる「知的な生命」の当為であった。

さて冗談はこの辺りにして、今回も反出生主義の話題だ。ただし今回は反出生主義の思想は取り上げない。今回は人間が新たな人間を作ることを良いとする立場からハンナ・アーレントの盟友でありナチス統治下のドイツから亡命したユダヤ人哲学者、ハンス・ヨナスの思想について戸谷洋志著『ハンス・ヨナスを読む』を通じて考えてみたい。なお原著の訳本を読むほどのエネルギーははじめからなかった。

ハンス・ヨナスの一生

ハンス・ヨナスは1903年にドイツの工業都市に生まれる。この町はカトリック信仰が厚かったようだが、ドイツ帝国が成立したことで弾圧がはじまり、住民はカトリックなのに教師はプロテスタントで占められるなどといった様子であった。ヨナスはこのような環境で紡績工場を営む父とユダヤ人の母のもとに生まれ、ユダヤ教徒として育てられる。少年時代はさまざまな本を読み、その中でもシオニズムの思想に惹きつけられる。大学時代にはハイデガーのもとで学んだり、生涯の友人となるハンナ・アーレントと出会うなど充実した学生生活を送る。

しかしそんな生活もナチス・ドイツ台頭の前では長くは続かず、1933年にイギリスへ亡命する。その後少年の頃から憧れていたシオニズムを実現のためパレスチナに入植する。入植後は自警団に所属し、さらに第二次世界大戦ではイギリス陸軍のユダヤ人旅団部隊に属し戦争を経験する。この頃から戦争の悲惨な現場を目の当たりにし生命についての思索始まったとされる。一方で彼の家族はその頃、相次いで強制収容所に送られ殺害されていた。

戦後、家族がナチスに殺されたこと、大学時代に師であったハイデガーナチスに忠誠を誓っていたことにショックを受けたヨナスはドイツには定住せず、パレスチナ、カナダを経てアメリカへ移住する。大学卒業から滞っていた研究活動を再開し生命倫理グノーシス主義に関するさまざまな論文を執筆する。なかでも1979年に発表された『責任という原理』はベストセラーとなるなど一躍現代思想を代表する人物となった。そして1993年、ニューヨークにてその生涯を閉じる。

このようにハンス・ヨナスは激動の時代を生きた歴史の証人ともいえる人物だった。彼が戦争を直に経験することでシオニズムというイデオロギーから生命という現象に興味の主体が移るのももっともなことだと言えるだろう。同時に恩師のハイデガーフッサールが生命という現象を軽視していたと感じるようになるのも当然のことと言えるだろう。

現在、我々は視覚と聴覚情報に限ればインターネットを通じ、交通事故から、自爆テロ、麻薬カルテルによる私刑に至るまでまで有象無象のグロテスクな映像に出会うことができるようになった。そして車一台、弾丸一発でいとも簡単に生を絶たれてしまう生物という脆さを前にすると我々は往々にして人間や生命といったものに意味づけをすることができずにニヒリズムに陥る。

しかしながらヨナスは生命について、人間についてニヒリズムに陥ることなくこれらを意味づけている。そして科学技術の発展が包含する倫理的な危うさを看破し、さらに未来へと通用する新たな倫理学を構築している。そうしたヨナスの生命哲学、未来倫理とはどのようなものなのだろうか。そしてそれら思想がなぜ子供を作ることが善いことであるとしているのだろうか。まずはヨナスの生命哲学、未来倫理を知る上で欠かすことのできない科学と技術という回り道をしながら詳しく見ていこう。

伝統的な倫理学の限界点について

なぜ生命哲学を考える上で科学や技術という迂回をする必要があるのか。それはヨナスの生きた時代に倫理学パラダイムシフトが起きたからに他ならない。このことについて説明する前に、ヨナスの説く科学と技術、そしてそれらが抱える問題点について見ていこう。

ヨナスの技術史観は17世紀以前と17世紀以後によって大別される。17世紀以前の技術は例えばハンマーなど、個物それだけで完結するような技術が主体だった。ハンマーの目的は何を叩いたり、砕いたりすることであり、それ以上でもそれ以下でもない。このような技術をヨナスは目的に「飽和点」がある技術とした。一方、17世紀以後の技術は目的が「液状化」してしまったとヨナスは説く。蒸気機関蒸気機関車、電信、電球などの技術はそれぞれの目的に飽和点というものが存在しない、それらは絶えず進歩を続け、相互に連関し合い、さらには新しい技術が生まれる。蒸気機関が発明され、それが蒸気機関車として鉄道に組み込まれ、電信や電球が生まれるとそれらが安全な運行に寄与するように。そして主なパワーソースを石炭および蒸気機関としていた鉄道はやがてその多くが電気およびモーターに置き換わり、さらには浮上式リニアモーターカーへと進歩を続けていく。電球はLEDへと進歩し、電信はインターネットへ進歩しさらにインターネットは別の数多の技術と密接に関係し合っている。このように「ここまで到達すれば進歩が終わり」などといった飽和点など存在せず、立ち止まることなく進歩を続ける個々の技術が織りなす総体、相互の連関にヨナスは技術の本質を見出した。

尤も技術は自ら進歩するわけではない。技術の進歩に人間は不可欠である。ではなぜ人間は技術の進歩を肯定するのだろうか。ヨナス曰く、それは人間が「無制約の進歩は存在しうる。何故なら、発見されるべき新しいもの、よりよいものは存在するから」という暗黙の了解を共有しているからだという。裏を返せばこれらは単に信じられているだけであって証明されたものでもなんでもないということだ。そしてこのような存在論的-認識論的な前提は科学においても当てはまる。それは科学の探求には限りがないという前提もまた同様に共有されているからだ。そしてこの前提を土台にして科学と技術は相互に連関しながら無限の進歩を続ける。

そしてヨナスはこうした人間の認識によって科学が孕む倫理的な危うさを感じ取る。ヨナスの感じる危うさ、それはこのような認識の前提が科学が「没価値的」であることに立脚していることに起因する。没価値的であるとはなにか。それは価値がないとか価値が低いといったものではなく、価値判断が不可能であるということである。ヨナスは科学の没価値性について方法論的観点と存在論的観点の2つからこのように述べている。前者は真理探求という性格上、その探求に個人的な価値観や私情を持ち込むことなく常に中立、客観的であるという点から、後者は研究の対象に対しても前者同様に客観的であるが故に、その対象の価値に対しても中立、客観的であるという点からそれぞれ没価値的であるとした。具体的には、こうした没価値性は例えば実験の対象であるラットに対し同情するなど私情を挟むことなく、実験を遂行すること。そしてラットはあくまで実験の対象であり、ラットそれ自体が価値を帯びているわけではないといった具合に説明される。こうした没価値的な認識はラットのみならず人間の生命に対しても同様に客観的な価値を付与することができなくなり、無条件に善いといえなくなるということだ。このような科学の没価値性は技術においても共有されている。例えば原子爆弾という技術の誕生は、爆弾という技術の進歩において「よりよい」ものであり、その絶大な破壊力は爆弾という技術を中立的に判断すればとても有用性に富んだものである。一方で科学技術文明の前では原子爆弾が良いか悪いかについての価値判断は個人的な主観にすぎなくなる。

17世紀以後、目的を失った技術、そして科学は進歩それ自体が良いことであるという暗黙の了解を前提に無限の進歩を続けている。ヨナスはこうした科学技術文明に没価値性という本質を見出す。没価値的な認識は善悪の価値判断の不可能性を生み出し、人間の、生命の無条件の肯定を否定し有用性のみが世界を支配する。これがヨナスの指摘する科学と技術、そしてそれらを推し進める文明が包含する危うさである。

それでは冒頭に立ち返り、倫理学パラダイムシフトについて見ていこう。ヨナスは従来の倫理学は科学技術文明によって通用しなくなったとし、これを「倫理の空白」と表現した。これはそれまでの伝統的な倫理学は同じ時代、空間の人間だけに関わるものであったため、科学や技術の進歩によって「今そこにいない人間」に対して影響を及ぼすことができるようになった科学技術文明に適用することができなくなったということだ。具体的には原子力発電によって生み出される放射性廃棄物が遠い将来の人間に対しなんらかの影響を及ぼすことや、植物はもちろんのこと、デザイナーベビーのような遺伝子技術によって予期せぬ事態を引き起こすといったことだ。そしてなんらかの問題が生じた時、最初の原因の生み出した当事者は遥か昔に死んでいたということが起こりうる時、もはや伝統的な倫理学の通用する隙はないのである。これが倫理学パラダイムシフトだ。

ではこの空白の時代に新たな倫理を構築するとすればそれはどのようなものなのだろうか。それは今存在していない、未来の人間に対しても責任を負う、未来への責任を含んだ倫理学である。しかしながら未来の人間が今存在していない以上、伝統的な倫理学と同じ手法、有り体に言えば「話し合い」や「同意」によって未来への責任を基礎づけることは不可能である。そこでヨナスは未来への責任は未来の人間との同意を根拠にするのではなく、未来の人間という存在それ自体を根拠としてその責任を基礎づけることを目指す。未来の人間が存在することが善であれば、その存在を脅かすようなことは自ずと諌められなければならないということだ。これは有用性が支配する没価値的な存在論とは対極に位置しているといえるだろう。これがヨナスの未来倫理、生命倫理の出発点である。

そして、この未来に他者が存在することが善であるという新たな存在論倫理学をヨナスは生命という現象、人間という現象を明らかにすることでこれを構築していく。次回はヨナスの説く生命という現象について見ていくことにしよう。

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