『ハンス・ヨナスを読む』を読む②

さて前回からしばらく間が空いてしまったが、今回もハンス・ヨナスの思想について整理していきたい。

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生命という現象および生命と非生命との違いについて

ヨナスは古典的な倫理学がテクノロジーや科学の台頭によって通用しなくなった時代に新たな倫理学を構築しようとしていた。ヨナスの未来倫理、それは未来の人間に対しても責任を負うという倫理である。この未来倫理は未来の人間が存在していることは善であるという根拠の元、構築される倫理である。では未来の人間、もとい人間、もとい生命の存在はなぜ善なのだろうか。ヨナスの生命論を見てみよう。

ヨナスの生命論は既存の生命に関する学問への批判から始まる。これは自然科学が生命を炭素や水素、酸素といった物質の最小単位に還元するという存在論的還元を前提としているところにある。生命がガラスなどの非生命と同様の還元が行われるということは、すなわち生きている人間と死体は存在論的還元という観点からは何ら同等の存在であるということに他ならないということである。ヨナスは生命を生命として理解することができないという点において既存の自然科学を批判し、ここにその限界を見出している。つまり自然科学的な存在論では、存在そのものを善とすることができないということである。そこで新たな存在論が必要になるというわけだ。これがヨナスの存在論、生命論の出発点である。

それでは自然科学が還元主義を採用するのに対して、ヨナスはどのような方法で生命と向き合うのだろうか。彼が採用したのは現象学的記述であった。現象学的記述とは簡単に言えば、物事をありのままに捉えるということである。ただしヨナスの現象学が彼の師であったフッサールと異なるのは、フッサールのような生命という現象を軽視し、エポケーのようなあたかも神の如き視点から現象を捉えようとするようなものではなく、あくまで人間という生命として、精神を宿す肉体として物事を見るということを重視している点にある。生命を理解するにはまず生きた生命であらねばならないということだ。

その上でヨナスは「質料」と「形相」の2つの概念を提示する。質料とは存在を構成する諸要素を指し、形相とはそれら諸要素の集合体である。人間を例にすれば質料が水や炭素、アンモニアなどで、人間が形相である。質料と形相の関係は生命だけに当てはまるものではなく、非生命にも同様のことがいえる。ただし非生命の場合は、質料と形相が同一であるという点で生命と大きく異なる。水の質料は水素と酸素だが、形相としての水と質料としての水に差異はない。では質料と形相の関係における生命と非生命とを別つものとはなんだろうか。それは「代謝」である。生命は常に代謝を繰り返し、その都度質料を変化させながらも形相は常に同一性を維持している。食生活を変えたからと言って別の人間に変化してしまうことはない。

このような質料と形相の関係から、ヨナスは生命について「有機体は、物質の利用可能性に依存しつつ、その物質のまさしくこの物質としての同一性からは独立している。有機体自身の機能的な同一性は、物質の実体的な同一性とは合致しないのだ。要するに、有機体の形相は、質料に対する困窮する自由という関係にあるのである」と述べている。ではこの困窮する自由とは何か。それは生命は絶えず変化する質料に対して同一性を維持するという点で質料の同一性から自由である一方で、質料を必要としないわけではないという点で質料から自由ではないということを意味する。つまり、形相の同一性は代謝によって維持されるからこそ、生命は代謝をやめることはできない。やめることは生命としての死を意味するということだ。そして質料と形相とが常に同一であり、代謝を必要としない水やガラスが死ぬことがないのはこのためである。

自然科学の還元主義的視座では生きている人間と死体に本質的な差異は存在しなかった。一方でヨナスは現象学的記述によって代謝という行為および困窮する自由という状態とに生命の本質を見出した。そして質料を交換しつつも形相を維持する代謝という行為は形相という自己と質料という世界とが明確に区別されていることにほかならない。この自己という内と世界という外との概念もまた生命の本質であるとヨナスは説く。なぜなら非生命に内と外の区別はないからだ。生命は世界という質料がなければ存在を維持することはできないが、世界から自由でいることのできる自己を同時に持っている。世界に属しながら自己というアウトラインに切り取られ、この輪郭の内側である限りは生命は自由でいることができる。これは人間だけでなくバクテリアから植物、動物すべての生命に当てはまる自己という概念である。そしてこの自由の程度が最も大きい生命が人間であるということだ。

さらに代謝によってそれぞれの自己を維持する生命と内と外の区別のない単なる物質を別つものがある。それは生命という存在それ自体が未来という時間的な次元を有しているという点にある。これはいったいどういうことなのか。例えば同じ炭素から成る黒鉛とダイヤモンドとは同じ元素の異なる結合の仕方という過去の事象の産物が現在の形相及び質料として顕れている。つまり過去があるから今がある状態である。一方で生命はこの瞬間に代謝をすることによって次の瞬間の未来へと存在を維持している。これは非生命と異なり未来があるから今がある状態である。ヨナスは「つまり、生命の場合には、過去と未来の外的秩序は内的に反転する。これが生命の目的論的性質の根拠である」と述べ、ここに生命という現象を意味あるものとして見出したのだ。

ここまで生命という現象を現象学的記述の視座から紐解くと何かとても素晴らしい現象のように思えてくるが、ここであたりまえの生命の宿命について自明ではあるが確認しておこう。それは言うまでもなく「死」である。代謝によって形相を維持する自己および生命が何らかの理由により代謝を行うことができなくなった時、死は訪れる。代謝と死はまさに表裏一体の関係である。生きている、存在しているという状態は常に死と隣り合わせであり、片時も死の可能性から逃れることはできない。しかしながら世界から自由でありながら世界に依存し、生命という文字通り生きている状態でありながら常に死の可能性がつきまとうというこの矛盾こそが生命という存在の本質であるということだ。繰り返される代謝は当然の行為などではなく、瞬間瞬間に死に抗うために選択された行為に他ならない。

そしてこの死の可能性は自由の増大とトレードオフの関係にある。肉体が複雑になり、それによって代謝も複雑になればそれだけ死の可能性は増大する。植物は枝の一本が折れたところで死に直結するわけではないが、動物の場合、骨が折れれば加速度的に死に向かうこととなる。しかし一方で同じ生命であっても動物の自由と植物の自由は比べ物にならないことは明らかである。ここに死と自由の関係が見て取れる。地球上の動物において他を寄せ付けないほどの自由を獲得した人間は同時に他とは格段に髙い死の可能性を手に入れた。ひとつの兵器によって種の滅亡をも辞さないほどだ。人間は今後もさらなる自由を手にするであろうが、いったい人間にとって、生命にとって自由とは何なのだろうか。

ここで一度ヨナスの生命論について整理しておこう。ヨナスは自然科学の還元主義的な生命への眼差しを批判し、生命として生命を見るという視点から生命という現象に立ち向かった。彼は質料と形相という関係から生命と非生命の差異を見出し、代謝によってその関係が維持されているとした。代謝とはまさしく自己という内と、世界という外とを別つような行為であり、この行為によって生命は世界から自由でいることができる。一方でヨナスはこの自由は世界に対する一方的な優越というものではなく、代謝という行為は世界に依存しているという点で生命の自由とは常に困窮する自由であると述べた。そしてもうひとつ生命と非生命を別つものとして死を挙げ、生命は常に死と隣り合わせでいながら代謝によってその都度生を選択し未来のために存在しているという生命の目的論的性質を提唱した。

ここまで未来倫理を構築する上でのヨナスの生命論を見てきた。生命は存在それ自体が既に未来のために存在している。これだけで素人目には古典倫理にかわる未来倫理を打ち立てるに十分なような気もするが、もう少し遠回りをして最高の自由を持つ人間は他の生命と何が違うのか。次回は生命の本質に代わり、人間の本質についてヨナスの理論を見てみることにしよう。

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