『ハンス・ヨナスを読む』を読む③

今回もハンス・ヨナスについて彼の思想を整理していきたい。①と②はだいぶ間が空いてしまったが、②以降はモチベーションを維持しつつ、できるだけ間隔を開けずに彼の思想の核心へともうそろそろいい加減に到達したいものだ。

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人間と動物の違いについて 人間という現象

前項においては生命と非生命の違いを困窮する自由という観念からそれを明らかにしてきた。生命は代謝によって自己を維持し、その自己という内側にいる間は限定的ではあるものの世界から自由である。しかしながらこうした自由の度合いは生命によって様々である。例えば栗の木は基本的に移動ができないが、その栗の木から栗の実を採集する人間は比較的自由に移動することが可能である。一方で栗の木の枝が1本や2本折れたところで栗の木自体が即座に死に至ることはないが、人間が骨折すれば場合によっては死に至る恐れがある。このように生命の自由とは死のリスクの大きさとトレードオフの関係にある。ヨナスはこのような自由と死の関係以外にも快と苦、孤独とコミュニケーションなどから同様の関係性を見出している。またヨナスは「獲られたものは収支決算表の片側ではなく両側に、すなわち自己というあり方の増大という形で記載される」と述べ、増大した自由は増大する死の可能性とセットであり、増大した自由とは自己意識の増大化であると論じている。そしてこうした増大化された自己意識を持つ生命の頂点に君臨するのが他ならぬ人間であるというのだ。では他の生命とは格別の自己意識、自由さを持つ人間だけに許された自由とは一体何であろうか。今回はその自由度において生命の頂点に立っている人間だけに許された特性、人間の本質を見ていこう。

自由という観点において人間と他の生命の分かつものとはなんだろうか。これはヨナスだけでなく様々な学問分野から一般会話まで多種多様な場面で話題に上る頻出のテーマである。これに対する回答といえば、例えば道具を作ったりとか、言語を操るとか、お金や国家といった虚構を生み出すなどがよく見受けられる。ではヨナスは人間と他の生命を分かつもの、人間の本質に何を見出したのだろうか。ヨナスは先に挙げた頻出の回答例すべてをも包含するような一つの人間観であるホモ=ピクトルを提唱した。これはラテン語で「描く人」を意味する。つまりヨナスは「描くこと」を人間の本質、人間と他の生命を分かつものであるとしたのだ。では描くとは何を描くのか。それは「像」である。像、それは古代の洞窟の壁に描かれた動物、巨大な地上絵、石の彫刻など多岐にわたる。もちろんいわゆる芸術作品だけを像とするわけではない。それについては後述するとして、まずは像を描くことがなぜ人間と動物を隔てることとなるのか見てみよう。

像の一例としてここでは絵を用いることにする。人間は絵を描くが、人間以外の動物は絵を描かない。なぜだろうか。それは絵というものが描いたところで食べ物にありつけるわけではなく、繁殖に寄与するわけでもないというまったく役に立たない代物であるからだ。つまり絵は無益で何の役にも立たず、有用性がまるでないのである。しかしながら人間は絵を描き、あまつさえそれを時には芸術作品として崇めている。なぜこのような珍妙な事象が起こるのだろうか。それは人間が生存に必要な行為からも比較的に自由であるからに他ならない。動物は常に有用性に支配されており、生存すること、子孫を残すことだけに行動を支配され、それらに関係のない役に立たない行為をすることができない。つまり人間は生命でありながら生命を維持するために必要な種々雑多な行為からも自由なのである。故に人間は絵を書き、絵を語り、絵を評価する。これが人間が絵を描く理由であり人間の本質であるとヨナスは説く。

人間は有用性から自由であるがゆえに無益な像を描くことができる。そしてその像の描き方もまた自由である。例えば動物の絵を描くにしても、デフォルメしても良いし、ある部位を強調しても良いし、色を変えても、現実にない部位を足しても良い。モデルを完全に真似することができないことがかえって現実という制約から自由になり現実にとらわれることなく好き勝手に描くことが可能になるわけである。このような同じモデルから無限の像を生み出すことのできるその無限大の想像力を秘めた人間の自由さをヨナスは「可能なものの王国」と表現し、像を描くということは対象を再創造するだけでなく、新しい事物を創造する行為であると述べている。そして可能なものの王国から生み出される新しい事物は常にそれがただ独立して存在しているわけではない。何の絵を描くか考えている時、絵を描く時、製作中の絵を見る時、完成した絵を見る時、そのすべての領域においてその事物と可能なものの王国を生み出している存在であるところの私とは切っても切れない関係にある。私が絵を描く時、否が応でも現れる私。それこそがホモ=ピクトルに他ならないのである。

もちろんこの絵という像と自己との切り離せない関係はなにも絵だけにとどまるわけではない。ヨナスのいう像とは絵などのいわゆる芸術だけに限定された狭いものではなく、ありとあらゆる創造物や頭に思い浮かべるイメージが像となり得る。好きな食べ物といった身近なイメージや未来の地球といった巨視的で未来的なイメージのような形のないものを含むすべての想像や創造は像を描くという行為となりうる。そしてヨナスはこの巨大すぎる像を描くという概念において、人間像という概念を特に重視した。人間像とは人として「こうありたい」とか「こうあるべきだ」といったように表現される人間のあり方を規定する像のことである。例えばある人が「人間は嘘をつくべきではない」という時、その人の行動規範は嘘をつかない人間像を前提にしている。ヨナスはこのような人間のあり方を「人間は、人間にふさわしいものの像に従って、自分自身の内的なあり方と外的な行為を形成し、経験し、判断している。望むと望まざるとに拘らず、人間は人間という理念を「生きている」」と述べている。人間はその行為の背景に必ず何らかの人間像があり、自身の信じる人間像に沿うような行為をしたり、反対にそれに背いて葛藤を抱えたりする。私が人間をどのように解釈するかということが人間像に、行為に現れるのである。

こうした人間像は像である以上、前述の動物の絵と同様、人間像と人間とが一致することはない。両者の間には絶えず隔たりが生まれ、その隔たりを行ったり来たりすることによって我々は人間とは何かを考えることができるのである。そしてこうした人間像は一個体の人間のあり方を規定するだけにとどまらず、その個体の属する共同体や社会なども人間像を思い描く上で解釈の材料の一部に加わっていく。それがやがて宗教や倫理、形而上学などを生み出すことに繋がっていった。つまり人間像とは人間の行為を規定するだけでなく人間の属する空間を様々な視点や解釈などから規定していく、まさに可能なものの王国に他ならなかったのである。例えばこの世界を始まりを描いた創世神話は世界各地に見られるが、こうした神話もまたある種の人間像を前提としたその世界、空間の解釈に従った結果なのである。そして人間と人間像の隔たりとの絶え間ない往復や生まれては消える人間および人間像のその永遠ともいえる営みの総体が織りなす時間的な流れを我々は歴史と呼ぶ。代謝によって自由を獲得しながらも、種を繁栄させるため有用性に行動を支配された動物たちの時間的な流れが進化であることに比べると人間の自由度のそれはたしかに計り知れないものだろう。

そして今我々はそうした絶え間ない人間像が紡ぎ出す歴史の終着点ではなく、まさに歴史の只中の先端を生きている。同時に我々は過去の人間像を遺跡や文学、絵画などを通じて共有することができる。ヨナスが人間は人間という理念を生きていると述べたように、我々は時間を超越した多様な人間像を人間だけに許された像を描く力によって縦横無尽に駆け巡ることができる。それは過去の人間像を共有するだけでなく、あたらな人間像を導き出す可能性を秘めた力である。そのような我々人間をヨナスは「私たちのうちに隠れている虹の戯れの、訓練された変奏者であり、他者の刺激に応える用意のできた者であり、それぞれ既存の文化としてひとつの経験の形式に拘束されない者である」と述べており、ここにヨナスの歴史観が見て取れる。すなわち我々は虹の戯れのように無限に広がるグラデーションのような人間像を時間を超越して共有できる変幻自在な存在であり、加えて我々がそれぞれに持っている人間像が他者に開かれており、さらに同時にその開かれた人間像に我々は応答できるということなのである。そしてこの開示と応答の連関こそ歴史に他ならないのである。

ここで人間の動物の違いについて簡単に整理しておこう。ヨナスは像を描くという行為を以て人間特有の自由を見出した。有用性から脱却した像を描く行為は、人間のあり方、人間を取り巻く世界のあり方を規定し、人間は絶えず自己と時空を超越した多様な人間像とを行き来しながら人間特有の時間の総体である歴史を紡ぎ出してきた。ではそのような人間像が織りなす歴史をこれからも続けていかなければならない理由とは何だろうか。只今をもって人間像を描くことをやめ、核兵器を通じて速やかにあるいはべネタ―流の絶滅論に従って緩かに歴史に終止符を打つことをヨナスが許さない理由とは何だろうか。次項ではヨナスの倫理学の核である未来への責任についてまとめることとする。


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