ベネター再考②「実存的出生肯定」

前回の続き

 
前記事においてはベネターの反出生主義である基本的非対称性と誕生害悪論について整理してきた。また同時に人生の質の悪さとその質の評価を見誤ってしまう人間の心理的現象についてベネターの見解を見てきた。ここまでが『生まれてこないほうが良かった』の第三章までの内容である。今回は主に第四章と第五章について触れていきたい。この二つの章は実際に子供を作ることについての是非と中絶の是非についてそれぞれ述べられている。そこで本記事と次記事では特に考えなしにあたりまえに子供を作るようないわゆる「普通の人々」の特徴を論じた上で、ベネターの見解を参照していきたい。そのため本記事は前記事と異なり、私の主張が主でベネターの主張は従である。それでは普通の人々の思想なき思想を紐解いていこう。

前回の記事はこちら
pregnant-boy.hatenablog.com

実存的出生肯定という思想なき思想

 
ハンナ・アーレントの盟友でもあるユダヤ人哲学者、ハンス・ヨナスの生命哲学は責任を負うことのできる唯一の生命である人間が未来においても存在していることが善であるということを出発点としている。その上で彼の哲学は人類に対し、人間の出生を半ば強制的に要請するという責務を生み出した。この点でヨナスの思想は非常に強制的な出生主義であるといえるだろう。この点について戸谷洋志は反出生主義同様、ヨナスのこうした責務を暴力的であると評したが、同時に反出生主義が個々人に対し出生をやめるよう要請するのに比べるとその暴力性はやや緩やかなものであると述べている¹。それはこの要請は人間個々人に課せられる責務ではなく、人類全体に課せられた使命であることに由来している。ヨナスは責任が存在する世界を存在しない世界と比べ無条件に良いとする前提に立っており、その上で唯一責任を負うことのできる人間が存在することを人類に要請するのである。この要請が個々人に課せられているわけではないのは、仮にこの責務が人間個々人に課せられてしまうとすれば、人間は責任を負わなければならないというヨナスの人間像から乖離し、国家や何らかの主体に管理され、それらにされるがままに子供を作るだけの不自由な人間像しか描くことのできない人間が出来上がってしまうからである。しかしながら帰結主義的には「誰か」が子供を作らなければ人類全体の責務は果たされないということもまた事実であり、その意味では人類に課すことと個々人に課すことに相違ないようにも思われるが、あくまでヨナスの哲学は形而上学的な命題を出発点としている公理であることを留意しておかなければならない。ヨナスにとって苦しみも増大した自由の属性にすぎず、生命は存在それ自体が善であり、それを絶やすべきではないという責務を負っているのだ。この点においてヨナスの出生主義は人間の実存から離れた本質的な性格を帯びているように感じられる。ここに人間の苦しみという実存を重視し子供を作るべきではないと個々人に要請する反出生主義と人間の責任という本質を重視し子供を作ることを人類に要請するヨナスの出生主義との相違点が垣間見える。

ではヨナスのような本質的な出生主義に対し、実存的に出生を肯定する出生主義といった類いの思想はあるのだろうか。それが今回論じる実存的出生肯定という思想なき思想である。本項ではヨナスのような生命哲学に相当する思想を特に持つことなく、生まれ始めることおよび生み出すことを肯定し、結果として出生主義的な性格を帯びている立場について論じていく。この立場は子供を作ることに対して肯定的でありながら特別な主義主張を持たない存在、つまり反出生主義、出生主義、チャイルドフリーの補集合としてマッピングされるような立場である。有り体に言えば「ふつうの人々」のことである。いわゆる「ふつうの人々」を本記事にて扱う理由は主に二つある。一つ目は過去から現在に至るまで、大多数の人間が生まれることおよび生み出すことに対し特に主義主張を持たない人間から生まれ、さらに生まれた人間もまた同様に補集合的存在となり出生を繰り返してきたという事実から、その圧倒的多数を占める人々の行動様式および考え方について整理する必要があるからである。二つ目は反出生主義者は極一部の例外(反出生主義者の女性が人工妊娠中絶が許されない国、地域において何らかの理由で生むことを強制されるような事例など)を除いて必ず反出生主義者以外から生まれるという事実から、いわば反出生主義者の生みの親である実存的出生肯定の理論を批判的に捉える必要があるからである。

本記事ではこのような補集合的存在について実存的出生肯定(者)と呼ぶこととする。そして実存的出生肯定を「生まれ生きることに対して根拠なき楽観主義を貫き無批判に自身と遺伝的な繋がりがある子供を作ろうとする一方で、障害児を生みだすことに対しては概して否定的である考え」と定義する。同時にこの考えを持つ者およびその者らの集合を実存的出生肯定者と呼ぶこととする。本記事においては、この思想がどのような特徴を持ち、またヨナスのような出生主義とどのような点で異なるのかについて論じていく。なお本記事では実存的出生肯定者を便宜上「彼ら」と呼ぶこととする。まずは実存的出生肯定の定義である「根拠なき楽観主義」、「無批判に自身と遺伝的な繋がりがある子供を作ろうとする」、「障害児を生むことに対しては概して否定的」の3つ要素についてそれぞれの特徴を見ていこう。

¹ 『ハンス・ヨナスの暴力性について』戸谷洋志note.com

「根拠なき楽観主義」とは

 
実存的出生肯定における根拠なき楽観主義とは人間の生および生命の宿命に関してその負の側面を無視ないしは過小評価し、正の側面を過大評価する主義のことである。例えば「生きてるだけで丸もうけ」といった格言や、何らかの理由で落ち込んでいる人に対して「生きていればそのうちきっと良いことあるよ」と言って励ます行為などがそれに当たる。もちろん常に人間の営みの負の側面について正当に評価し続けていれば気が滅入ってしまうことは否定できない。そのためこうした楽観論の助けを借りて気持ちよく自己や他者を騙すという行為はすぐに批難される代物というわけではない。それによって苦しみを抱えていた者の苦しみが少しなりとも緩和されることができたならば、その場面に限って言えば悪いことにはならないからである。

しかしながら、前述のような格言や励ましの言葉は根拠がないが故に、普遍性を持たないことがほとんどである。例えば自分以外の家族を皆殺しにされた殺人事件の被害者に「生きてるだけで丸もうけ」が通用するかと言われれば甚だ疑問である。実際彼らの多くはそうした被害者に対し先のような言葉を投げかけることはしないだろう。反対に「何の落ち度もないごく普通の家族がこんな事件に巻き込まれるなんて神さまは無情だ」といった超自然的な理由を探すことだろう。ここに根拠なき楽観主義における「生」の適用範囲が見て取れる。つまりここではある種の限定的な生のみが「生きて~」に含まれているのであって、全ての生が含まれているわけではないということだ。ここに実存的出生肯定の無自覚的ともいえる例外的な苦しみの無視および軽視が垣間見える。換言すれば、生きるに値しない「生」というものが根拠なき楽観主義から排除されているということである。この排他的な生の運用は、後述する「障害児を生むことに対しては概して否定的」であることにも通ずる実存的出生肯定の核心的な特徴でもある。

一方で実存的出生肯定の生の排他性は全ての生を実存的に肯定することの限界点といったものを我々に提示してくれる。生のダイナミズム。それは実に多様で時に耐え難いほど苦痛を、果てしなくグロテスクな様相を我々に提供する。これは既に死んだ物体や非生物などには持ち得ない性質に他ならない。実存的出生肯定が限定的な生のみを肯定することはある種当然というべきだろう。これは実存的出生肯定の限界というよりも生そのもの限界に他ならない。言うまでもないことだがこうした生の持つ特徴的な性質は、実存的出生肯定だけに制約を加えるものではない。ヨナスのような本質的出生肯定が全ての生を実存的に肯定できない理由もここにあるだろう。全ての生を実存的に肯定できれば本質的に肯定する必要などないのである。

また、このような楽観主義は実存的出生肯定を基礎付ける思想でありながら、心理学の分野で正常化バイアスやポリアンナ効果と呼称されるように人間にプリインストールされた思考のアルゴリズムでもある。これは反出生主義者であっても兼ね備えている人間に共通するある種の不可避的な人間性に他ならない。人は往々にして何らかの事件や事故、災害を見聞きしても「自分だけは大丈夫」だと思い、万が一不運に見舞われても同様の不運と比較し「自分はまだ恵まれている方」と思い込み、さらには身体や財産などへ不可逆的な損失を被っても「当たり前の大切さに気付かされてよかった」と信じ込んでしまう。

しかしながら現在起きていない、これから起きるかもしれない不運を完全に回避するには死ぬしかなく、あるいは起きてしまった不運を認めないのならこちらも同様に死を選ぶほかない。無用な心配は無意味で現状への絶望は死を意味する。根拠なき楽観主義はショーペンハウアー流の生きようとする意志の顕れであるとすれば、我々の意思とは無関係に駆動するエンジンそのものである。尤もこのエンジンを搭載した乗り物の行き着く果ても「死」なのではあるが。生物にとって当たり前程度の苦しみでは途中下車を許さず、我々に生きることを強いるような意志があるとすればそれは根拠なき楽観主義なのかもしれない。

以上のことから根拠なき楽観主義とは実存的出生肯定の思想の中核をなすものでありながら、人間のある種の普遍的な思考様式であることが分かる。それは「ふつうの人々」がある種の普遍的な人間の姿であり、その「ふつうの人々」の思想なき思想が実存的出生肯定であることの裏返しに他ならない。そして実存的出生肯定とはこうした人間にインプリティングされた思考様式を生まれ生きることに対して殊更に適応している。彼らは生まれてくる子供は五体満足で生まれ、その後も事件や事故にも遭遇することなく健やかに成長していくだろうと思っている。だが、そのような保証はどこにもない。子供が被害に遭う事件や事故は日々発生しており、それは確率論的に言えば自分の子供または自分以外の子供の誰かが必ず被害に遭うということを意味する。もちろん日々の生活様式を全く事件や事故に遭遇しないように鎖国のような暮らしをすることは可能だが、多くの親は朝自分の子供を学校へ送り出す。その時点で鎖国のような生活様式と比べ被害に遭う確実性は高まるわけであるが「そんなことはありえない」や「たぶん大丈夫でしょう」の面持ちで、あるいはそのようなことは頭の片隅にもない状態で子供を送り出す。まさにこの面持ちこそが根拠なき楽観主義なのである。当然だがそのようなリスクをいちいち考えていたらキリがないし、それこそ精神を患ってしまうことだろう。だからこそこの思考様式は実存的出生肯定の特徴でありながら人間の特徴でもあるのだ。

「無批判に自身と遺伝的な繋がりがある子供を作ろうとする」とは

 
次に実存的出生肯定の2つ目の特徴である無批判に自身と遺伝的な繋がりがある子供を作ろうとすることについて見ていきたい。無批判とは批判しないこと、物事の善悪・価値を客観的に考えないことである。つまり彼らは自身と遺伝的な繋がりがある子供を作ろうとすることの善悪・価値を客観的に考えないのである。彼らはそうした判断を停止し、子供を作ろうとすることありきで子供を作ろうとする。彼らに子供を作らないという選択肢はもはや存在しないのである。また遺伝的な繋がりがある子供である以上、彼らは里親や養子および特別養子縁組を通じて親になるということを求めていない。

そもそもなぜ子供を「作る」ではなく、「作ろうとする」であるかというと、ここでいう子供を作ろうとするという行為とは妊娠に至る行為全般(自然妊娠に至るセックスや、各種生殖補助医療)を指しており、必ずしも出産に至る必要はないからである。そのため、子供を作ろうとしたが、結果として妊娠に至らなかったり、流産や中絶などにより出生に至らなかった場合であっても子供を作ろうとする行為に当てはまる。より具体的にいえば、自然妊娠することが叶わなかったが里親や養子、特別養子縁組などの遺伝的な繋がりがない子供および子供の養育を欲することなく、生殖補助医療などあらゆる手段をとって自分たちの子供(第三者からの卵子および精子提供を含む不妊治療によって一方の親とは遺伝的な繋がりがない子供も含まれる)を欲するカップル(夫婦および婚姻関係にない男女またはそれに類する性的マイノリティのカップル)が結果として妊娠や出産に至らなかった場合でも、それは無批判に子供を作ろうとする行為といって差し支えない。なぜ彼らは子供を作ることの是非について一度立ち止まって考えてみることをせず、そのまま通り過ぎてしまうのだろうか。

また無批判であるということは子供を作ろうとすることはなぜ悪いかだけでなく、なぜ善いかといった善悪の判断の善の部分についても彼らは特に考えることはしないとうことである。たしかに子供を作ろうとする理由を自分自身にとって自分の子供を作りたいから、配偶者の子供が欲しいからといった思い理由に挙げ、それを善とすることは可能だがそれではただのトートロジーである。例えばヨナスのような責任を全うできる唯一の主体が未来において存在していることが良いからといった思想が彼らには見られない。このような子供を作ること、作ろうとすることについて彼らはある理由から悪いことだとは思わないが、一方で別の理由を以って善いことだと思っているわけでもない不思議な状態にある。なぜ彼らは無批判に考えもなく子供を作ろうとするのだろうか。他の夫婦も同じことをしているからだろうか。あるいは自身の親に要請されたからだろうか。このような動機なき模倣を論証することは難しいが、彼らのこのような無批判性について、妊娠、出産に関する本や雑誌、そしてベネッセ教育総合研究所による調査を例にその特徴を見ていきたい。

まずは、妊娠、出産にまつわる書籍を例にとる。これらの本は主に、妊娠をする前、妊娠をしたい時、妊娠中および出産の計3段階に分かれている。妊娠する前の書籍には、妊娠に適した体づくりなどを目的とし、そのような体を目指すための食生活や運動などについての情報が掲載されている。こうした妊娠のためにより健康な体を目指していくという考え方はプレコンセプションケアと呼ばれ、米国疾病管理予防センター(CDC)や世界保健機関(WHO)といった機関も提唱している概念である。WHOの資料にはプレコンセプションケアについて以下のように説明されている。

What is preconception care, and what is its aim?
Preconception care is the provision of biomedical, behavioural and social health interventions towomen and couples before conception occurs. Itaims at improving their health status, and reducing behaviours and individual and environmental factors that contribute to poor maternal and child health outcomes. Its ultimate aim is to improve maternal and child health, in both the short and long term (1).

1. Meeting to develop a global consensus on preconception care to reduce maternal and childhood mortality and
morbidity. Geneva, World Health Organization, 2013².

この説明から分かるように、プレコンセプションケアとは母子の健康状態の改善を図るためのあらゆる分野からの支援を意味しているが、当然のことながら子供を作ることそれ自体の是非は問われていない。もちろんここでその是非が問われていないことを槍玉に挙げることは言いがかりに近いところではあるものの、妊娠の前段階から既に妊娠の是非を巡る議論は無視されていることは否めない。そもそもリプロダクティブライツを一旦保留すれば妊娠および出産はそれ自体が母体の健康を脅かすものである。子供を身籠ることがなければ起こりようのない病気や怪我が事実存在する以上、世界の人々の健康を監督する機関が健康のために子供を作ることをやめることは選択のひとつであると提言してもおかしなことではないのにもかかわらず、現実にはそうした提言は見当たらない。つまり、子供を作ることに対して、世界は妊娠する前の段階から既にニュートラルな思考から逸脱しているのである。

そしてこうした姿勢はプレコンセプションケアをテーマにした書籍においても見受けられる。プレコンセプションケアのムック本『preco』の創刊本では冒頭に「Preco(プレコ)は、女性のライフスタイルが大きく変わる20代から30代の女の子のために生まれました。この時期には、卒業、就職、結婚、妊娠、出産、育児といった女の子の人生に重要なイベントが盛りだくさん。(中略)そんな女の子のからだを少しでも守るお手伝いがしたい!私たちはそんな気持ちでPrecoを作っています³」といった紹介文が記載されており、ここでもWHO以上に女性は結婚を経て子供を作るものだといったジェンダーロールにすら支配された子供を作ることを巡る無批判性が垣間見える。

このような姿勢は妊娠するための書籍や妊娠中および出産に関する書籍においても同様に見受けられる。たしかに妊娠するという決定を下した段階に移行した主体にとっては、妊娠の是非を考えることは既に通り過ぎてしまった通過点にすぎない。しかしながら年齢や既往歴を無視し妊娠したいと考えているすべての主体に対し、妊娠すること以外考えられないといった母体の健康を重視するプレコンセプションケアすらとも矛盾するようなスタンスで情報提供するような書籍は無批判的というよりも、もはや盲目的と評したほうが良い。こうしたいわゆる妊活本にはすべてのページに渡って妊娠すること以外の選択肢がないような内容で占められている。例えば妊娠したい女性や夫婦のためのムック本『赤ちゃんが欲しい』においては、高齢で妊娠するために、特定の疾患を抱えながら妊娠するために、生殖補助医療を用いて妊娠するために、食生活を見直して妊娠するために、といった記事が多数掲載されており⁴、すべてが妊娠すること目的をとしていながら、あたかもそれ自体が動機でもあるかのような子供を作ることに対する盲目的な姿勢がうかがえる。また「無事」に妊娠に至ることができた女性やそのパートナーに向けて出版された妊娠向けの書籍には、その冒頭に必ずと言っていいほど妊娠を「おめでとうございます」と祝福している⁵こともそうした思考様式の結果と言える。

こうした無批判に子供を作ろうとする行為は、反出生主義者およびチャイルドフリー論者が当為として子供を作らないこと、出生主義者が当為として子供を作ること(を要請すること)と比べると彼らの行為には根拠と呼べるものが何もないということである。だからこその「無批判」であり、実存的出生肯定を思想なき思想と呼ぶ所以でもある。

次にベネッセ教育総合研究所による妊娠出産子育て基本調査の結果をもとに彼ら無批判性および実存的に出生を肯定する姿を詳しく見ていこう。この調査では妊娠期または育児期である妻とその夫の計4,479人に対し結婚、妊娠、出産、子育てに関するアンケートを行ったものである。


図1⁶
 表1-1-1 結婚した理由(%)
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┃          │妻全体│夫全体┃
┠━━━━━━━━━─┼─━─┼─━━┨
┃一緒に生活したい  │ 84.2│ 89.5 ┃
┃と思ったから    │   │   ┃
┠━━━━━━━━━─┼─━─┼─━━┨
┃精神的な安らぎが  │ 55.0│ 48.1 ┃
┃得られると思ったから│   │    ┃
┠━━━━━━━━━─┼─━─┼─━━┨
┃結婚する年齢に   │ 32.9│ 37.0 ┃
┃なったと思ったから │   │    ┃
┠━━━━━━━━━─┼─━─┼─━━┨
┃子供が欲しかったから│ 16.8│ 20.1 ┃
┠━━━━━━━━━─┼─━─┼─━━┨
       ⁝     ⁝   ⁝
┗━━━━━━━━━━┷━━━┷━━━┛
注 1)複数回答。
注 2)妻全体=妊娠期妻+育児期妻、夫全体=妊娠期夫+育児期夫。
(※一部を省略して再現)


図1では結婚した理由についてまとめられている。このアンケートに回答している人は現在妊娠しているか既に子供が1人以上いる妻およびその夫に限定されているものの、結婚した理由において子供をその理由に挙げた人は妻の場合は2割に満たず、夫の場合でも2割ほどであった。一方で「子どもが予定外にできてしまったから」を理由に挙げた人は妻全体で9.1%、夫全体で6.9%であった。こうしたいわゆるできちゃった婚した夫婦を除けばその大半が結婚直前あるいは当初は子供について特に考えていなかったことがうかがえる。そしてこれらの夫婦は結婚から約2年の時を経て妻が妊娠へ至っていることが明らかになった⁷。この2年という期間の間にどのような心理的な変化があったのあろうか。


図2⁸
 図1-1-4 妊娠の経緯(妻全体)(%)
┏━━━━━━━━━━━━━━━┯━━━┓
┃               │妻全体┃
┠━━━━━━━━━━━━━━─┼─━─┨
┃自然にまかせていた      │ 54.9│
┠━━━━━━━━━━━━━━─┼─━─┨
┃計画的に妊娠した       │ 24.1│
┠━━━━━━━━━━━━━━─┼─━─┨
┃子どもができなかったので、  │ 13.7│
┃夫婦あるいはどちらかが    │   │
不妊治療をうけた       │   │
┠━━━━━━━━━━━━━━─┼─━─┨
┃望んではいなかったが、    │  6.8│
┃子どもができてしまった    │   │
┠━━━━━━━━━━━━━━─┼─━─┨
┃無答不明           │  0.5│
┗━━━━━━━━━━━━━━━┷━━━┛
(※円グラフを表にして再現)



図3⁹
 表1-1-3 おなかの赤ちゃん/○○ちゃんの出産を決めた理由(%)
┏━━━━━━━━━━━┯━━━┯━━━┓
┃           │妻全体│夫全体┃
┠━━━━━━━━━━─┼─━─┼─━━┨
┃自分の子どもが    │ 79.7│ 82.3 ┃
┃欲しかったため    │   │   ┃
┠━━━━━━━━━━─┼─━─┼─━━┨
┃好きな人との子どもを │ 59.8│ 52.8 ┃
┃持ちたかったから   │   │    ┃
┠━━━━━━━━━━─┼─━─┼─━━┨
┃結婚して子どもを持つ │ 54.7│ 59.1 ┃
┃ことは自然なことだから│   │    ┃
┠━━━━━━━━━━─┼─━─┼─━━┨
┃子どもがいると生活が │ 51.9│ 48.5 ┃
┃豊かになり楽しくなる │   │    ┃
┃と思ったから     │   │    ┃
┠━━━━━━━━━━─┼─━─┼─━━┨
       ⁝     ⁝   ⁝
┗━━━━━━━━━━━┷━━━┷━━━┛
注 )複数回答。
(※一部を省略して再現)


図2および図3では妊娠の経緯と出産を決めた理由についての調査結果である。図2では全体の半数以上が自然にまかせると回答していることがわかる。自然にまかせるとは子供を作ろうという意図なしに避妊をせずにセックスをすることで結果として自然妊娠に至ることを良しとするものであり、これは実存的出生肯定の定義にも合致する特徴であるといえるだろう。この「自然」という言葉は図3においても「結婚して子どもを持つことは自然なことだから」という文脈で登場している。そしてこのことを理由に挙げた夫婦は図2同様半数以上にのぼっている。他にも「自分の子どもが欲しかったため」や「好きな人との子どもを持ちたかったから」といった理由から子供が欲しいといってもそれは幼い人間という意味ではなく、遺伝的な繋がりがある子供を求めていることがわかる。つまり彼らの子供を作る動機は総じていえば、「結婚して好きな人との間に自分の子どもを持つことは自然なことだから」と言えるのではないだろうか。

こうした自然という言葉はじつは厄介な言葉である。ここでは人類はその長い歴史の中で愛し合う2人の男女が子供を作るという行為を繰り返し行ってきたという事実を基に、それ故、結婚して好きな人との間に子供を作るべきだといった規範が含意されている。なぜなら結婚して子供がいない男女が、両親や義理の両親などから「孫はまだなの?」と質問されたりせがまれたりした時、彼らは「夫婦は子供を作らなければならないが、私たちはまだその責務を履行していない」という思いからくる申し訳なさや罪悪感を感じるからである。これはあらゆる規範の中でも(現代では特に)弱い規範ではあるものの、夫婦に横たわる責務として一般に認知されているといえるだろう。

しかしながらヒュームの法則よろしく「~である」という事実から「~べき」という規範は導くことができないように、結婚して子供を持つことは自然なことであると言い切ることはできない。たしかに結婚して子供がいない夫婦よりも結婚して子供がいる夫婦の方が多いことは事実である。しかしそれを自然と評することはアメリカの生物学者、ギャレット・ハーディンが「自然とは、人間が自分の意志で決めたことに対して責任を取らなくても済むように、人間の心が作り出した空想の産物である¹⁰」と述べたように無責任と言わざるを得ない。むしろ「神さまが赤ちゃんを授けてくれた」という超自然的な理由に依拠するほうが「自然」と言えるだろう。

調査をもとに実存的出生肯定の定義のひとつである「無批判に自身と遺伝的な繋がりがある子供を作る」を改めて考えると、子供を作る多くの人はこの定義に非常によく当てはまっているように思われる。特に子供を意識することなく結婚した多くの夫婦は、およそ2年の時を経て妻が妊娠に至る。彼らにとって妊娠とは特に子供を作ることを殊更に意識せず、避妊をしないセックスの帰結としての産物である場合が多い。そして彼らは結婚した男女が子供を作ることを当たり前の行為とみなしており、それを出産の動機づけとして利用している。また彼らは遺伝的なつながりを非常に欲していることもうかがえる。こうした「特に意識しない」といったことや「当たり前だと思われていることをそのまま理由にする」といった特徴はまさに無批判であることの証左である。


² preconception_care_policy_brief.pdf https://www.who.int/maternal_child_adolescent/documents/preconception_care_policy_brief.pdf
³ 『からだにいいことpreco』祥伝社,2017,p.4
⁴ 『赤ちゃんが欲しい 2018夏』主婦の友社,2018,p.11,p.15,p.22,p.46,p.66,p.91
⁵ 安達知子『はじめてママ&パパの妊娠・出産』主婦の友社,2014,p.2
 オギタカズヒデ『最新版 らくらくあんしん 妊娠・出産』学研プラス,2017,p.7
 井上裕子『やさしくわかる 月数別 はじめての妊娠・出産』西東社,2016,p.2
⁶ ベネッセ教育総合研究所,第1回妊娠出産子育て基本調査(横断調査)報告書,2006,p.25
berd.benesse.jp
⁷ 同上,p.27
⁸ 同上,p.28
⁹ 同上,p.31
¹⁰ Garrett Hardin『The rational foundation of conservation』North American Review Vol. 259,1976,S.14-17.

「障害児を生むことに対しては概して否定的」とは

 
さてここまで彼らの思想なき思想を見てきたが、最後にヨナスのような出生主義と徹底的に袂を分かつ特徴について論じていきたい。それは「障害児を生むことに対しては概して否定的」ということである。これはヨナスの説く責任観念を端的に表す「乳飲み子の産声に応答する責任」を放棄する行為に値するという点で実存的出生肯定の決定的な特徴であると言えるだろう。現代では胎児の状態を診断する出生前診断の進歩によって乳飲み子が産声を上げるよりも前にその乳飲み子がどのような子であるか遺伝的な側面から「透視」ができるようになり、それに伴い法の範囲内で特定の乳飲み子の産声に応答することを拒否することが可能になった。当然のことながら人工妊娠中絶(以下、中絶)ははるか昔より人類と共に歩んできたようなものだが、こうした技術の発達により「この子は嫌だ」というより具体的な意図をもって実存的に胎児を否定することが可能になった。これは経済的な問題といった子供を取り巻く環境的な理由から中絶することと明らかに一線を画す行為である。なぜなら後者がその子でなくても中絶をするのに対し、前者はその子だから中絶をするのである。これは明確な個の否定であり、非常に強力な意思を感じざるを得ない。ここにヨナスがまさに危惧していた有用性だけに支配された没価値的な技術の運用が出生の場において利用されていることが伺える。このような実存的出生肯定の定義のひとつである「障害児を生むことに対しては概して否定的」について論じるに際し、本項では人工妊娠中絶および出生前診断に関する基本的な情報を整理した上で、彼らが障害児を生むことに対して概して否定的であると判断できる統計的なデータを参照しながら、障害児を生まないという出生否定がなぜ実存的出生肯定と両立するのかという理由と彼らが障害児を忌避する理由を述べるものとする。

まずは人工妊娠中絶に関する基本的な情報を整理したい。中絶はその国の宗教や慣習などによって合法な国とそうでない国(アメリカ合衆国では州ごとに異なる)とが存在する。わが国では医師による中絶は合法であり、その法的な根拠は母体保護法である。ではその母体保護法に関して人工妊娠中絶について定められた第2条と第14条について確認しよう。

第二条 この法律で不妊手術とは、生殖腺を除去することなしに、生殖を不能にする手術で厚生労働省令をもつて定めるものをいう。
2 この法律で人工妊娠中絶とは、胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期に、人工的に、胎児及びその附属物を母体外に排出することをいう。

第十四条 都道府県の区域を単位として設立された公益社団法人たる医師会の指定する医師(以下「指定医師」という。)は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる。
一 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの
二 暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの
2 前項の同意は、配偶者が知れないとき若しくはその意思を表示することができないとき又は妊娠後に配偶者がなくなつたときには本人の同意だけで足りる¹¹。

このように中絶することのできる要件が定められている。この要件に違反した場合は堕胎罪に問われる可能性がある。また「胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期」によって中絶する期限が定められている。1976年以前までは28週未満であったが徐々に短縮され、未熟児の医療技術の向上などを理由に1990年に現在の22週未満に改められた。

第14条から分かるように中絶することのできる要件は非常に緩く定められていることが分かる。そのため、経済的理由を拡大解釈し障害児を育てるだけの経済的基盤がないことを理由に障害を持った(持っていると思われる)胎児を中絶することも可能である。日本家族計画協会の意識調査によると第14条に定められている理由以外の相手と結婚していないので産めない、相手との将来が描けないから、自分の仕事・学業を中断したくないからといった理由で中絶がなされている実態がうかがえる¹²。一方で中絶件数は1955年の約117万件から減少傾向にあり、2018年には約16万件ほどと大きく減少している¹³。

次に出生前診断について整理する。先に述べたように現在わが国は22週未満であれば自由に中絶を行うことができる環境にある。そのため障害を持った胎児を中絶することもひろく行われているのが実情である。胎児が障害を持っているか判断する診断を出生前診断という。出生前診断には定期的な妊婦健診において受ける超音波検査などの広義の出生前診断と希望する妊婦が羊水や血液を採取する狭義の出生前診断がある。本項では狭義の出生前診断を扱う。

狭義の出生前診断は非確定的検査と確定的検査に分けられ、前者は胎児の障害の可能性を確率で判断するのに対し、後者はその可能性の有無を0か1かで判断することができる。また胎児に負担のある検査とそうでない検査に分け、前者を侵襲的検査と言い、後者を非侵襲的検査という場合もある。例えば確定的検査かつ侵襲的検査の代表である羊水を採取して胎児の染色体を調べる羊水検査は確実に障害の有無が分かる一方で流産のリスクがわずかに存在している。反対に母体の血液を調べることで障害の可能性を判断する母体血清マーカー検査は流産の可能性などはないものの必ずしも胎児の障害を検出できないというデメリットが存在する。そうした一長一短であった出生前診断の現場に非確定的検査かつ非侵襲的検査でありながら非常に高い精度で障害の可能性を判断することのできる新しい技術が生まれ、近年注目を浴びている。

NIPT(無侵襲的出生前遺伝学的検査 "non-invasive prenatal genetic testing")と呼ばれる新しい検査は2011年10月に北米でスタートし、わが国でも多くの妊婦に利用されている。NIPTは妊婦の血液に含まれている胎児由来のDNAの断片を読み取り、その断片がどの染色体に由来するか調べることで、胎児の染色体の状態を統計的に判別することのできる技術を用いた出生前診断である。NIPTは他の非確定検査と比べ、非常に精度が高いことで知られている。このNIPTの精度について産婦人科医であり、日本医学会が認定するNIPT実施施設の医師たちで構成された団体「NIPTコンソーシアム」のメンバーでもある室月淳は以下のように述べている。

結論からいうと、陽性的中率は年齢によって変化し、35歳で80パーセント、40歳で90パーセント以上と推定されています。一方、陰性的中率は年齢にかかわらず、99.9パーセントという結果でした。これはNIPTで陽性と出れば、実際に21トリソミーである確率は80~90パーセントくらいであるのに対し、陰性と出ればまずそうでないと考えてよいということです¹⁴。

このようにNIPTは実際は陽性であるのに陰性と診断される確率が極めて低く、検査も採血だけで済むため妊婦や夫婦あるいは親族の間で人気が高まっている。日本医学会が認定する施設では、2019年12月時点でNIPTを受けることのできる者を、次のように制限している。

現在のところ、NIPTは希望さえすればすべての妊婦さんが受けられるかというと、そうではありません。35歳以上の高齢妊婦のかた、上の子にダウン症候群や18トリソミー、13トリソミーのいずれかの既往があるかた、超音波検査や母体血清マーカー検査でなんらかの異常所見が指摘されたかたのいずれかの場合という条件があります¹⁵。

しかしながらこれはあくまで認定施設に限った話である。NIPTコンソーシアムの調査によると日本医学会の認定を受けずにNIPTを実施している無認定施設は2020年7月時点で135施設あり、2019年11月時点での54施設から急増していることが明らかとなっている¹⁶。日本医学会の認定施設は2020年8月時点で109施設にとどまっており、無認定施設が認定施設を上回っていることが分かる。認定施設では前述の利用者の制限の上、遺伝カウンセリング呼ばれるカウンセリングが検査を受ける前に必要だが、無認定施設では利用は誰でも行え、カウンセリングなどは一切なく、検査の申し込み(費用は保険適用外で約20万円ほどである)をして採血をすれば後日結果が知らされるという簡便な仕組みになっている。さらに認定施設では3つの染色体異常の可能性のみの診断に限っているが、無認定施設の中には性染色体を含むすべての染色体を検査できることを売りにしている施設もある。こうした無認定施設は美容外科クリニックなどが参入しているケースがあり、出生前診断に対し全くノウハウのない業者が営利目的のみで事業を展開しているものと思われる。NIPTコンソーシアムによるとNIPT認定施設では2013年から2020年までの7年間で8万6813件の検査が実施されているが、1施設で10ヶ月間に1200件の検査が実施されていた無認定の施設もあり¹⁷、認定施設と無認定施設を合わせた検査数の実態は8万件よりもさらに多いものと推察される。

ではNIPTの検査で胎児に異常が確認されたケースの内、何割が実際に中絶しているのだろうか。NIPTコンソーシアムの集計によると、検査開始から2015年12月までの時点で334人が中絶を行い、その割合は異常があると診断された内の96%にのぼるという¹⁸。ほとんどの妊婦または夫婦が胎児に異常があった場合、中絶することを選択しているという実情が明らかとなっている。

さて、ここまで障害を理由にした中絶の実態を詳しく見てきたが、その実態は実存的出生肯定の定義のひとつである「障害児を生むことに対しては概して否定的」と合致するといってよいだろう。彼らは根拠なき楽観主義を貫き、無批判に自身と遺伝的な繋がりがある子供を作ろうとするが、いざ胎児に異常があると分かると中絶することを選択するのである。しかしながら実存的に出生を肯定することと障害児を拒否することとは両立しえないように一見すると思われる。だが、実存的出生肯定は先に述べたように、生きることの適応範囲が限定的である。よって障害児の親として生きることはその範囲外であるために障害児の出生は否定されるのである。より具体的にいえば、障害児の親としてその子供を育てるということは健常者の子供を育てることよりも苦労が多く、自分の人生を楽しむことができなくなるのではと彼らは考えているのである。つまり、障害児を生むことで自身の実存が脅かされると彼らは考えているのである。

しかしながら子供によって自身の比較的自由で楽しい生活という意味での実存が脅かされることは何も障害児だけに限った話ではない。例えば生まれた直後には分からないような自閉症ADHDなどの発達障害の子供を育てることや、大病も大きな怪我もすることなく成長したが、ある日突然事故に遭い、深刻な後遺症を負ってしまった子供を育てることも、そうした意味での実存を脅かす現象に他ならない。他にも年齢的には成人の引きこもりやニートの子供や、家庭内暴力や刑法犯などの子供を育てることなどそうした例を挙げればきりがない。だが、実存的出生肯定者はそうした子供を作る上でのリスクは彼らの楽観主義によって無視している。彼らの生を巡る排他性は回避できるものは回避しつつも不可知的なものは根拠なき楽観主義によって無視するのである。


¹¹ 母体保護法 昭和23年7月13日 法律第156号 最終改正平成12年 法律第80号
¹² 北村邦夫「中絶の実態 「胎児に申し訳ない」 受ける女性の思い」『朝日新聞』2020年5月20日
¹³ 同上
¹⁴ 室月淳『出生前診断の現場から 専門医が考える「命の選択」』集英社新書,2020,p.66
¹⁵ 同上,p.63
¹⁶ 市野塊「新型出生前診断、認定外は全国135カ所 地方にも進出」『朝日新聞』2020年8月4日
¹⁷ 「妊婦さん、その検査ちょっと待って ~新型出生前検査の混乱~」『サイカルジャーナル|NHK NEWS WEB』2018年6月21日

www.nhk.or.jp
¹⁸ 「新型出生前診断 異常判明の96%中絶 利用拡大」『毎日新聞』2016年4月25日

実存的出生肯定批判

 
ここまで当たり前に子供を作るごく普通の人々について、生まれ生きることに対し根拠なき楽観主義を貫くこと、無批判に自身と遺伝的な繋がりがある子供を作ろうとすること、障害児を生むことに対しては概して否定的であることの3つに分け論じてきた。彼らのような補集合的存在が論議の対象になることは少ない。しかしながら彼らも決して清廉潔白な存在であるわけではない。そして彼らにもまったく思想がないわけではなく、そこにはグロテスクな理論も横たわっていることが明らかになった。

反出生主義は彼らからしばしば狂人の思想のように捉えられている。しかし反出生主義がすべての出生を否定するのに対し、実存的出生肯定が恣意的な生の運用をしている以上、彼らもおいそれと反出生主義を狂った思想扱いすることはできないだろう。

では我々には子供を作る自由や中絶をする自由、反対に子供を作る義務や作らない義務、中絶をする義務はあるのだろうか。次回、ベネターの第4章、第5章を参考にしながらそれを明らかにしていきたい。