ツイッターと反出生主義

ネットカルチャーと反出生主義


反出生主義は何も哲学的な立場だけにとどまるものではない。それは「ベネターの反出生主義を再考する①」の冒頭でも述べたように普遍的な人間の叫びであり、問いのようなものである。従って反出生主義のような思想は先に論じたスター☆トゥインクルプリキュアのようなアニメーションなどの創作の場においても見受けられる。そしてそれは今や我々の日常生活に深く浸透しているインターネット空間においても同様である。特にSNSソーシャル・ネットワーキング・サービス)が普及し、ホームページやブログなどを作成することなく、誰でも簡単に自分の意見を投稿できるようになったことで現実世界では出会わないような様々な人々の思いをより気軽に覗くことができるようになった。そこには喜怒哀楽様々な感情が散りばめられており、当然のことながら自分が生まれてきたことを否定したり、子供を作る者を批難するといった激しい感情も垣間見える。本記事ではそうしたインターネット上に跋扈する反出生主義的思想についてツイッターを通じてその実態を見ていくこととする。

ツイッターというリゾーム


ツイッターは利用登録をすれば誰でも140字以内の文章を画像や動画と共につぶくやく(ツイート)ことのできるSNSである。わが国でもフェイスブックやインスタグラムと並び、非常に多くのユーザーに日々利用されている。ツイッターの投稿はフェイスブックのような既に現実世界で交流のある者同士のSNSと異なり、多くは非実名での利用がなされている。任意のハンドルネームとアイコンとをペルソナにして自身の興味のあるカテゴリーの情報をツイートしたり閲覧したり、同じような趣味嗜好を持つもの同士で繋がる(フォローする)ことが主な目的である。

ツイッターではそうしたカテゴリーごとの集団は「クラスタ」や「界隈」、「沼」などと呼ばれ、それぞれが一定の規模の集団を形成している。またそうした集団はさらに細分化された小規模な集団に分類されているケースも多く見受けられる。例えばアイドルグループのファンのクラスタは、女性アイドル、メジャーデビューしたアイドルグループ、乃木坂46乃木坂46のメンバーの1人と細分化されていくように、アイドルというひとつの集合は無数のフラクタルな部分集合から成り立っている。そしてユーザーは1人でいくつものクラスタに属する場合が多く、アイドルとラーメンの食べ歩きとを兼ねたり、ラーメンの食べ歩きと一人旅とを兼ねるなど、それぞれのクラスタ同士が緩く繋がっているといった現象が多く見受けられる。このように何千万というユーザーとそのユーザーから成るクラスタの総体が織りなすリゾームのような形態がツイッターというSNSの特徴である。

ツイッターにおけるクラスタ


こうしたクラスタはそれぞれが独立していながら別のクラスタに従属し合い、さらにそれぞれが特徴的な性質を持ち合わせている。例えば、影響力のあるユーザー(アルファツイッタラー)を頂点にそれに賛同するユーザーで構成された宗教団体の教団のような性質を持つ集団もあれば、現実世界で同じような職業やスキルを持ち合わせた者同士で構成された比較的差異のないコロニーのような性質を持つ集団もある。

前者はいわゆるネット右翼ネトウヨ)やネット左翼(パヨク)などと揶揄されるような政治色の強い集団によく見受けられ、影響力のあるユーザーが特定の政党や特定の民族、集団に対して批判するツイートを行うと、集団内のユーザーは事実確認などをすることなしに同じ方向を向き、影響力のあるユーザーのツイートを拡散(リツイート)したり、賛同するツイートをする。一方で後者は医師や研究者、イラストレーターなどといった、現実世界でも彼ら独自の共通言語が展開されるような比較的クローズドな集団を指し、あまり波風の立たない穏やかな集団であることが多い。

また、教団的な性質を持つ集団は同じような性質の集団と激しく衝突することが多々ある。特に自公連立政権を支持する集団と支持しない集団との対立や、アニメや漫画を愛好する男性の集団と性的な表現の規制を訴えるラディカルなフェミニストの集団との対立などは日常的に見受けられる。こうした集団間には先に述べたような集団同士の緩い繋がりといったようなものは存在せず、両者は完全に対立している。

ツイッターにおける反出生主義


ツイッターには対立を理由に孤立化した集団の他にもユーザーの性質を理由に孤立化した集合がある。それはいわゆるメンヘラと呼ばれる精神状態が不安定な者の集合である。メンヘラとはメンタルヘルスの略語であるメンヘルが変化したネット用語で、漠然とした生きづらさを抱えている人を指す。必ずしも何らかの精神疾患であると診断される必要はなく、同様に精神科や心療内科などへの受診もメンヘラの要件ではないが、メンヘラと呼ばれるユーザー(その多くは女性である)は病院で処方された向精神薬など大量の錠剤の写真を投稿し、「つらい」「しにたい」といったツイートを頻繁に行う。こうした投稿には同じような生きづらさを抱えている人や、反対にそのような女性との性的な出会いを目論む男性ユーザーを除けば、いわゆる「健全な」ユーザーのレスポンスは見受けられず、メンヘラと呼ばれる界隈は他のどの集団よりもスタンドアローンな存在である。

彼女たちの多くは幼少の頃よりDVや虐待、ネグレクトといった家庭環境で生育しており、そうした影響から自身の親を糾弾したり、自分は「生まれてこなければよかった」といったツイートを繰り返し行っている。さらには妊婦や育児をしている母親が集うクラスタのユーザーに対して批難する投稿をする場合もあり、中には子供の同意なしに子供を作った母親を、相手の同意なしに性行為をした者(強姦魔)になぞらえ、「強産魔」と侮辱するといったユーザーも存在する。こうした投稿はインターネット上で見られる広義の反出生主義と言えるだろう。

生まれてこなければよかったという心理


インターネット空間において見受けられる、このような「生まれてこなければよかった」という心理について、森岡はベネターのような「生まれてこない方がよかった」といった哲学的な判断と区別される必要があると述べ、両者の違いを以下のように説明している。

「生まれてこなければよかった」も、「生まれてくる」ことと「生まれてこない」ことの比較をしたうえで発話される。しかしその比較は、心理学的次元にとどまっているのである。哲学的次元においては、その二つの善悪が比較できないことが理解されている。しかしそれでもなお、心理学的次元ではどうしても「生まれてこない」ほうが「生まれてくる」よりも望ましいと思えてしまうときに発話されるのが「生まれてこなければよかった」なのである。したがって、「生まれてこなければよかった」のメッセージの中心は現状に対する苛立ちに満ちた否定である¹。

彼女たちは現状への苛立ちや不安から実存的に自身の出生を否定し、その感情が「生まれてこなければよかった」として発露されているのである。一方で、こうした感情を持つ者たちにとって哲学的な反出生主義が自身の心情を説明してくれる助けや癒しになるのかと言われれば疑問である。戸谷は森岡との対談において実存的な苦しみを抱える者にとってベネター的な反出生主義は役に立たないということについて次のように述べている。

日本での近年の反出生主義の受容のされ方を見ていくと、そこには少なからぬひずみがあるような気がしています。研究者のなかでは論理的なパズルとして好奇心を持たれている側面もあると思いますが、一方では、自分の人生に苦悩してベネターの本に手を伸ばすという読者も多数いるでしょう。ただ、そうした読者の望んでいるものが、本当にそこに書かれているかといったら、おそらく書かれていないだろうという気がします²。

たしかにベネターの本には、どうしたら自身の出生を肯定できるかといった読者の望んでいるものは含まれていない。むしろそれとは正反対の事柄で占められている。このように反出生主義を哲学的に扱うということは、実際に苦しみを抱えている人にとっては逆に侮辱にもなりうることである。そういった意味ではインターネット上における切実な出生否定の投稿の数々は反出生主義が既に生まれてしまった人に対してはアフォリズム的な役割しか果たさないのではないかという反出生主義の限界点といったものを指し示してくれる羅針盤のような存在といえるだろう。

出生を巡る対立構造は哲学的な領域にとどまらず人間の活動領域全般に見受けられる。それは出生を肯定する者と否定するものの対立だけにとどまらず、否定する者同士の間にも見出されるものであることが明らかとなった。その上で哲学的な反出生主義を我々の実存的な生に適応した時、語り得ること、語り得ないことは何か。そしてそのとき我々は出生に対しどのような態度で臨むことが望ましいのだろうか。



¹ 森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ!』筑摩選書,2020,p.317
² 森岡正博,他『現代思想2019年11月号 特集=反出生主義を考える-「生まれてこないほうが良かった」という思想-』青土社,2019,p.12