ベネターの反出生主義を再考する①

はじめに

人は生まれるべきではない、あるいは人は子供を作るべきではないとする思想を反出生主義と言う。これは何も哲学的な立場だけに限定されるものではなく、「人の一生というものは俯瞰してみれば苦しいことの方が多い。それならば生まれることより生まれない方が良いのではないか」という我々人間の素朴な疑問に立脚していると言ってもよいだろう。そしてそれは現代社会特有の病理に限定されるものでもなく、古代ギリシアの悲劇作家や原始仏教に遡っても見受けられるある種の普遍的な人間の叫びのようなものでもある。このような思想を分析哲学の立場から論じたのがデイヴィッド・ベネターである。彼の反出生主義の特徴は森岡ショーペンハウアーがレトリカルにしか言えなかったことを、論理的に言おうとしたところにあると評した¹ようにロジカルな点にある。ベネターの反出生主義は基本的非対称とそこから導かれる誕生害悪論によって導かれる帰結である。本記事ではベネターの基本的非対称と誕生害悪論を整理した上でベネターの反出生主義について述べることとする。

インターネッツ上で見られるベネターの記事は多くが基本的非対称性と誕生害悪論とに終始しているので、それらの記事やツイートと差別化を図るために今回は本文の第2章以降の部分にも踏み込みたい。なお、再考と銘打っているものの大して考えていないことを先に謝っておく。

¹ 森岡正博 他『現代思想2019年11月号 特集=反出生主義を考える-「生まれてこないほうが良かった」という思想-』青土社 2019 p.12

基本的非対称性

まずはベネターの反出生主義を論じるためにその基礎となっている基本的非対称性について整理することとする。ベネターの反出生主義は存在することは存在しないことよりも常に害であるという誕生害悪論を基盤としている。存在することが常に害である以上、「存在すること」になんら例外は存在しない。つまり彼に言わせれば自分のことを生まれてきてよかったと思っている人や傍から見て幸福に満ち足りているような人であってもその人が存在することよりも存在しないことのほうが良く、その人は生まれてこない方がよかったのである。一見すると暴力的とも思われるかもしれないが、この誕生害悪論を論証するにあたりベネターはまず快(快楽)と苦(苦痛)の非対称性(基本的非対称性)について論じている。それは以下のようなものである。

1)苦の存在は悪い、そして
2)快の存在は良い
3)苦の不在は良い(たとえその良さを享受している人がいなくても)、しかし
4)快の不在は、こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人がいない場合に限り、悪くはない²

苦の存在および快の存在については疑いようのないことは直感として理解されるだろう。苦の不在についてはベネターは二つのケースに分けて論じている。ひとつは実際に存在している人が決して存在しなかったという事実に反するケースにおいて、もしその人が存在しなかったら存在しなかった苦痛についてであり、もうひとつは実際には決して存在しなかった人が存在しているという事実に反するケースにおいて、もしその人が存在していたら被っていた苦痛についてである。これらの苦痛の不在は反事実的なその人にとって善であるということである。では反対に快の不在は悪いのかと言うとそうではない。ベネターは快の不在は悪くないと主張する。このことを論証するにあたり、ベネターは基本的非対称性の具体例を提示している。ひとつ目の非対称性は以下の通りである。

苦痛を被る人々を存在させることを避けるのは義務であるが、幸福な人々を存在させる義務はないという見解である。(中略)これに対し、幸福な人々の喜びはその人たちにとって良いだろうが(その喜びを奪われる人が誰一人として存在していないだろうという場合は)そうした喜びが存在していなくてもその人たちにとって悪いわけではないという理由で、そうした幸福な人々を存在させる義務は全くないと私たちは考えるのだ。³

ベネターはこのような見解を取り上げ、快楽の不在と苦痛の存在とは非対称性があると論じている。これは我々が苦痛が存在していないことが良いことであり、反対に快楽が存在していないことが悪いことではないと考えていることの証左でもある。一方でベネターは幸福な人々を存在させる義務があると考えている人々の存在を考慮し、快の不在が苦の存在と同様に悪いというわけではないことを説明するためにふたつ目の非対称性を説明している。それがふたつ目の非対称性である。

苦痛に彩られた人生を生きている異国の住民のことを思うと確かに悲しくなる訳だが、人の住んでいないある島のことを耳にしても、もし存在していたらその島に住んでいたであろう幸福な人々のことを思って同じように悲しくなる人は誰もいないし、そのような可能的な存在者が人生を楽しめないことを悲しく感じる人は誰もいない。⁴

より具体的に言えば日本から遠く離れたアフリカの貧しい地域で飢餓と紛争に苦しんでいる子供たちをニュースを通じて知った時に沸き起こる残念という気持ちと、太平洋に浮かぶ無人島に存在していたかもしれない幸福な人々が存在しないことを知った時に感じる気持ちが同じであるはずがないということである。ベネターはこれら2つの非対称性に加え、さらに2つの非対称性を展開し合わせて4つの非対称を論じている。以下がその4つの非対称性である。ベネターは先に述べた2つの非対称性に加え、予想される利益の非対称性と回顧的利益の非対称性を挙げ、快楽の不在は苦痛の存在と同様に悪いというわけではないことを説明している。

ⅰ)生殖に関する義務の非対称性
悲惨な人生を送るだろう人々を生み出すことを避ける義務はあっても、幸福な人生を送るだろう人々を生み出さなければならない義務はない。

ⅱ)予想される利益の非対称性
子どもを持つ理由として、その子供がそれによって利益を受けるだろうということをあげるのはおかしい。子供をもたない理由としてその子供が苦しむだろうということをあげるのは、同じようにおかしいというわけではない。

ⅲ)回顧的利益の非対称性
苦しんでいる子供を存在させてしまった場合、その子供を存在させてしまったことを後悔すること、そしてその子供のためにそれを後悔することは理に適っている。対照的に、幸せな子供を存在させることができなかった場合は、その子のためにそのできなかったことを後悔することはあり得ない。

ⅳ)遠くで苦しむ人々と存在しない幸せな人々の非対称性
私たちが遠くで苦しんでいる人々のことを悲しく思うのは当然だ。それとは対照的に、無人の惑星や無人島、この地球の他の地域に存在していない幸せな人々のために涙を流す必要はない。⁵

ⅰとⅳが先に挙げた非対称性である。これにⅱおよびⅲを加えたものをベネターは4つの非対称性としている。基本的非対称性を受け入れるのであればⅱ関しては特に疑問を差し挟む余地はないだろう。もし快の不在が悪いことであるとするならば、その子供を存在させる理由として、その子供が生まれることによって利益を受けることを理由に挙げることに問題はない。しかし、快の不在が悪くはない以上、先の理由を以って子供存在させる理由とするには整合性に欠けるというものである。一方で苦の不在が良いことである以上、子供を存在させない理由としてその子供が苦しむことを挙げることは同様に奇妙なことではないことが理解される。ⅲに関しても基本的非対称性を保持する以上は他の非対称性同様に確からしいと言えるだろう。ⅲに関する補足としてベネターは子供を持っていなかったことを理由に悲観に暮れる場合も想定されるが、それは子供を持っていないその人自身に対する悔恨であり、実際には存在していないが存在していたかもしれない子供に対する悲しみではないと述べており、両者は明確に区別される必要があると言える。

以上がベネターの反出生主義である誕生害悪論を理解するための基礎である基本的非対称性と4つの非対称性である。両者は互いに補完し合う関係性であるため、いずれかの非対称性を認めるならば基本的非対称性および4つの非対称性を認めざるを得ないということである。

² 同上 p.40
³ デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かったー存在してしまうことの害悪』小島和男・田村宜義訳 すずさわ書店 2017年 p.41
⁴ 同上 p.44
⁵ 森岡正博 他 前掲書 p.41

誕生害悪論

次に基本的非対称性を基礎とした誕生害悪論について説明する。これがベネターの思想が反出生主義的であると評される所以であり、彼の思想の核でもある。ベネターはまずある人、Xが存在するシナリオAとXが決して存在しないシナリオBの2つのシナリオを想定する。これを図にすると以下の通りとなる。

図1
  シナリオA   シナリオB
┏━━━━━━━┯━━━━━━━┓
┃ 苦痛がある │ 苦痛がない ┃
┃  (悪い) │  (良い) ┃
┠━━━━━━─┼─━━━━━━┨
┃ 快楽がある │ 快楽がない ┃
┃  (良い) │(悪くはない)┃
┗━━━━━━━┷━━━━━━━┛
シナリオA(Xが存在する)
(1)苦痛がある(悪い)
(2)快楽がある(良い)
シナリオB(Xが決して存在しない)
(3)苦痛がない(良い)
(4)快楽がない(悪くはない)⁶

基本的非対称性を元にして図1の状況を整理すると、シナリオAにおける苦の存在は悪であり、シナリオBにおける苦の不在は善である。よって両者を比較した時、(3)は(1)よりも優れていることが分かる。次に快について見てみよう。シナリオAにおける快の存在は存在するXにとっては良い。そしてシナリオBにおける快の不在は基本的非対称性を認めるのであれば悪くはないと判断される。よって(2)と(4)を比較すると、(2)は存在するXにとっては良いが、それが(4)を上回るほど良いというわけではないことが理解される。なぜならシナリオAとシナリオBは互いに存在する人間同士の比較ではなく、存在する人間と決して存在しないこととの比較だからである。これはXという存在する人間にとっての快の存在はYという存在する人間にとっての快の不在と比較して相対的に良いが、Xが存在するシナリオAにおける快の存在はXが決して存在しないシナリオBの快の不在よりも良いということはないということである。図1で述べられている悪くはない(not bad)とは良い(good)に対して劣っているのではなく、最低でも同じ程度に良いことを意味している。従ってシナリオAとシナリオBを比べると、存在することは決して存在しないことと比べ利益があるとは言えず、存在することは決して存在しないことよりも常に悪く、翻って人は生まれてこない方が良いと言うことができるのである。またベネターは誕生害悪論の快の比較に関して比喩を用いて分かりやすく解説している。それが以下に示されるのは病気さんと健康さんの図である。

図2
   病気さん     健康さん
┏━━━━━━━━┯━━━━━━━━┓
┃ 病気である  │ 病気でない  ┃
┃  (悪い)  │  (良い)  ┃
┠━━━━━━━─┼─━━━━━━━┨
┃急速回復能力  │急速回復能力  ┃
┃を持っている  │を持っていない ┃
┃  (良い)  │(悪くはない) ┃
┗━━━━━━━━┷━━━━━━━━┛
病気さん
(1)病気である(悪い)
(2)急速回復能力を持っている(良い)
健康さん
(3)病気でない(良い)
(4)急速回復能力を持っていない(悪くはない)⁷

図2は図1における(2)と(4)との比較を理解するために用いられた比喩であり、病気さんと健康さんはどちらも存在しているものとして扱っている。そのため、存在していることと決して存在していないこととを比較するために喩えられているわけではないことに留意する必要がある。ベネターは病気さんと健康さんについて以下のように述べている。

S(Sick=病気さん)は発病しやすい。また彼にとって幸運なことは体質的にすぐに快復はする。H(Healty=健康さん)は、すぐに快復する能力はないが、病気には絶対にならない。Sにとって病気になっていることは悪くすぐに快復するということは良いことである。Hが病気に絶対にならないことは良いことだが、すぐに快復する能力がないことは悪いことではない。すぐに快復する能力は、Sにとっては良いものだが、Hに勝る真の利点ではない。何故なら、そうした能力がないことはHにとって何の喪失でもないからである。⁸

ベネターはこのようにして快の不在を急速回復能力がないことに喩え、健康さんにとっては急速回復能力がないことは悪いことではなく、同様にXが決して存在しないシナリオBにとっても快の不在は悪いことではないと説明している。以上のことから病気さんが健康さんよりも良いということにはならず、図2同様図1においても存在することは存在しないことよりも良いということにはならない。従って存在することは常に害であり、我々は生まれてこない方が良く、新たに子供を作ることは悪いのである。これが基本的非対称性を基礎としたベネターの誕生害悪論である。

どんな人生であっても存在するよりもしない方が良いという誕生害悪論は次のことが含意されている。すなわち良いことだらけで針で指の先を一回だけ刺される怪我の苦しみしかない人生であっても生まれない方が良いということだ。それならばと存在させることを良しと判断することも可能ではあるが、ここで病気さんと健康さんの比喩に立ち返ってみる。たしかにその病気(怪我)さんの一生は病気にまったく罹患せず、たった一回だけ針で刺されてごく微量出血するだけである。そしてその怪我もすぐに止血され皮膚も再生される。しかしながらそうしたごくわずかの苦しみしかなかったとしても、先の図1および図2が示す通り、健康さんの方が良いのである。どれほど小さな苦痛であっても苦痛は苦痛であり、それはその人が存在しなかれば被らなかった苦痛なのである。そしてベネターはそもそも現実にはこのような苦痛がわずかしかない魅力的な人生すら存在しておらず、むしろ人生は自分たちが思っているよりも悪いものなのであると述べている。次項ではこの人生の質の悪さという点について深く掘り下げていくこととする。


⁶ デイヴィッド・ベネター 前掲書 p.48
⁷ 同上 p.57
⁸ 同上 p.51

存在してしまうことの害悪

ベネターは誕生害悪論の他にも『生まれてこないほうが良かったー存在してしまうことの害悪』において誕生害悪論とは独立して存在してしまうことの害悪について述べている。これは誕生害悪論に続くベネターの反出生主義の第二部として理解されるものである。第二部では人生はどれほど悪いものであるかについて論じている。ただしそこで例示される人生の例は誕生害悪論と異なり決して存在しないこととの比較はされていない。そのため例えばAという人生とBという人生とを比較しどちらが好ましいかについて論じる場合があるが、それはあくまで存在する人生同士の比較であり、仮にAという人生の方が望ましいからといってその人生は存在するに値すると判断しているわけではないことに注意する必要がある。あくまでベネターの核は誕生害悪論であり、これから論じる人生の質の良し悪しに関しては決して存在しないことに優越するわけではない。

彼は人の一生を正確に見定めているペシミストを除いて、多くの人は人生を過大評価しすぎていると述べている。つまり人生の価値というものは彼らが考えているよりも遥かに悪いということである。尤もベネターは人生が悪いからといって人生は続ける値しないとしているわけではない。ベネターは人生は始めるに値しないと論じているのであって続ける価値がないとは必ずしも言っていない。つまりベネターは自殺を(一部の例外を除いて)否定している。ベネターと自殺については後の項において後述することとして、本項でなぜ多くの人は人生の価値判断を誤ったり、過大にプラスの方向に評価してしまうのかについて、そしてなぜ人生は我々が思っているよりも悪いものであるのかについて、整理することとする。

まずはなぜ多くの人は人生を過大評価してしまうのかについてベネターの見解を整理する。彼はその理由に多くの人が人生の質は人生における良いことと悪いこととの差によって表され、その差の価値判断によって人生の質が良し悪しが判断できると考えていることや人間の生得的な心理的現象を挙げている。

まず彼はそうした引き算が人生の質を決定できない理由として「順番」「強度」「人生の長さ」「閾値」の4つの理由を提示している。

順番とは人生における良いことと悪いこととがその身に現れる順序のことである。ある2つの人生があり、どちらの人生にも同じ数ずつの良いことと悪いことがあったとする。もし単純な引き算で人生の質を判断することが可能であるとすれば両者の質は同じになるだろう。しかしベネターはこれは順番という理由で誤っていると論じている。なぜなら人生の前半にすべて良いことが散りばめられ人生の後半にすべての悪いことが散らばっている人生と、良いことと悪いこととがバランスよく配置されている人生とでは前者より後者のほうが好ましいと言えるからである。

そしてこれは強度についても同様のことがいえるとベネターは述べている。同じ総量の良いことがあったとしても、とても強烈な良いことがほんの少しだけある人生と、比較的強くはないがより多くの良いことが頻繁に散りばめられている人生とでは前者より後者のほうが望ましいと言えるだろう。また人生の長さについてもそれぞれ同じだけの良いことと悪いこととが配置された人生の場合、長く生きたほうが良いとか反対に短く生きたほうが良いといった価値判断が分かれると思われることからも、良いことと悪いことの単純な引き算は人生の質を評価する上で役に立たないと考えることができる。

さらに重要な理由としてベネターは「人生がある一定の悪さの閾値を一度でも越えるとすれば(その悪さの量と分布も考慮に入れてのことだが)、良いことがどれほどあろうともその悪さを打ち消すことは決してできないということはほぼ間違いない⁹」と述べ、閾値が人生の質に多大な影響を及ぼすと論じている。例えば多くの人が経験することのできないような多くの良いことに恵まれている誰もが羨むような歌手やスポーツ選手が、病気や事故などによってそのスター人生を絶たれ、普通の人としての生活もおくることができなくなるような悪いことに遭遇した時などを想定すると人生の質を単なる引き算で判断することはできないと言えるだろう。このように人生の良し悪しは単純な計算で測れるものではなく、さらに上記4つの理由から多くの人が思っているよりも悪いものであるとベネターは論じているのである。

次に先述べたような人生の評価に関して、心理的現象という側面から見ていきたい。これについてベネターは3つの現象を主に挙げているのでそれぞれ整理していく。1つ目はポリアンナ効果(訳本ではポリアンナ原理)と呼ばれる心理的現象である。これは人は多くの場合、過去について悪いことよりも良いことを思い出しやすく、未来に関してネガティブよりもポジティブな予測をしやすいといった習性を意味している。こうしたいわゆる人生に対する楽観論についてベネターは「自分のことを『あまり幸せじゃない』と考える人なんてほとんどいない。それどころか、圧倒的に大多数の人が『結構幸せ』とか『とても幸せ』とか言っている¹⁰」と述べ、自分が幸福であるかどうかについての自己判断がポリアンナ効果によって歪められていると評している。

2つ目はいわゆる認知的不協和と言われる心理的現象である。訳本においては認知的不協和と明言されているわけではないが、ベネターはこれについて「ある人の客観的に判断される幸福が悪い方へと傾くと、なによりもまずそこにはかなり主観的な不満足が生まれる。しかしそのとき、未知の状況に適応しようとしたり、その状況に応じて自分の期待を順応させようとしたりする傾向が生じる¹¹」と述べており、これは認知的不協和の特徴と相違ないと判断される。例えばある人が自分は健康で幸福あると評していたが、がん検診によってがんが発見されるとする。すると自分は健康であるという認知1からがん患者であるという認知2に変化する。そしてがん患者の生存率が低いという認知3は認知2と齟齬をきたすため、そこに主観的な不満足が生まれる。この不満足を解消するには認知2か認知3のいずれかを変更するか新たな認知を加える必要がある。そこでがん患者でも元気に暮らしている人もいるといった認知4やがんよりも他の病気の方が死ぬ確率が高いといった認知5を加えることで自分の期待(もしかしたらがんになっても大丈夫かもしれないといった期待)を順応させる傾向が見られるだろう。このような認知的不協和の解消によってたとえ不幸な事象に遭遇したとしても大抵の場合、その人の幸福は元の状態には戻らないにしてもある程度維持されてしまうのである。つまりこれらの悪いことに適応しようとする心理的現象はポリアンナ効果同様に人生の質を評価することを邪魔してしまうのだとベネターは論じている。

さらに3つ目としてベネターは自分の幸福を他人の幸福と比較するという傾向によって多くの人は自分の幸福を評価する際、実際の人生の質ではなく、相対的な人生の質を以って幸福を自己判断していることをその理由に挙げている。先のがん患者の例を再度用いれば、自分は健康で幸福であるという認知1からして同年代の同性と比べてとか、会社の同僚と比べてという評価方式であったりするのである。この場合、実際にはさして健康ではないにもかかわらず、自分の周りの人たちがより不健康であるが故に自分の健康度を見誤り、自分は健康であると評価することに繋がってしまっているのである。こうした心理的現象をベネターは進化論的には驚くものではないと評している。彼に言わせれば私たちが生存し種を残すためには「自分の人生がどういうものなのかの本当の質に目を向ける傾向¹²」は必要がなかったのであり、それ故多くの人は人生の質の評価を誤り、ペシミストと呼ばれる人は自ずと少ないということなのである。

次になぜ人生は我々が思っているよりも悪いものであるのかについてベネターの見解を整理する。ベネターは世界に蔓延る様々な苦痛について具体的な事例を挙げて説明している。これらの苦痛の数々は先に述べたポリアンナ効果などの生得的で楽観的な心理的現象のおかげで覆い隠されているようなものである。彼は自然災害や、飢餓、栄養失調、伝染病、虐殺、拷問、殺人、強姦、暴力、自殺などありとあらゆる苦痛を例に挙げ、それらの苦痛によって過去から現在までに数えきれないほどの人々が苦しんできたと論じている。しかしながら多くの人は自分の子供はそのような苦痛を被ることはないと思い込み子供を作っている。その連続的な人間の再生産が数えきれないほどの苦痛を結局は生み出してしまう元凶となってしまっているのである。ベネターはこのような状況を作り出している多くの人を「彼らは、めいっぱい弾が込められた銃で、ロシアンルーレットをしている¹³」と評している。

ベネターによって例示されている苦痛の多くは虐殺や伝染病といった歴史的なものや飢餓や栄養失調といった縁遠い世界の話であるため、より身近にそうした苦痛を捉えるために、ここでは子供の苦痛に焦点を当てベネター同様にそれらの苦痛がいかにロシアンルーレット的であるか考えてみたい。わが国において2020年上半期に20歳未満の子どもが被害に遭った事件や事故は少なくとも271件発生している¹⁴。これは通信社や新聞社によってニュースとして詳細が報道された事件事故のみで統計資料などには算入されるものの報道されないといったケースに関しては含まれていない。271件の内、死亡した事例は83件(事故死:50件、事件死:20件、自殺:13件)である。それらは不慮の事故で突然死亡したり、生まれた直後に母親に殺されたり、母親の育児放棄の末衰弱死したり、無理心中に巻き込まれるなど多種多様である。例えば6月に発生した育児放棄による死亡事件では、被害者である3歳の女児が保護責任者遺棄致死罪で起訴されたシングルマザーの母親に自宅に置き去りにされ、自宅から一歩も出ることが出来ずに死亡している¹⁵。このほかにも3月に発生した殺人事件では、13歳の男児と10歳の女児が離婚による親権を巡り、「親権を取られるぐらいならいっそのこと」という動機で凶行に及んだ母親に包丁などで刺され死亡している¹⁶。

こうした死亡事例以外にも暴行による怪我やネグレクトによる精神的苦痛を負うことになる虐待事件なども報道されているだけで49件発生した。言うまでもないが児童相談所が対応した児童虐待件数は2019年度に19万件を超えており¹⁷、まさに氷山の一角である49件という数は警察が対応し事件化し報道されたケースにすぎない。子供は自己決定権が希薄で親の一存で生活環境が激変することもあり、例えばある日突然シングルマザーの交際相手の男と同居することが決まるといったことも起こりうる。この場合、たとえ一切の虐待が生じなかったとしても環境の変化それ自体が苦痛を生じさせているとも言えるだろう。実際にそうした環境の変化を経てささやかなシングルマザー家庭の一人娘だった女児が交際相手(のちに父親となる)の男から凄惨な虐待を受け死亡するという事件も起きている。

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また肉体的苦痛は軽微であっても精神的苦痛を被るような性犯罪(強制性交、強制わいせつ、青少年健全育成条例違反など)も48件発生しており、これらの中には不慮の事故同様、ある日突然性被害を受けるといった苦痛が多分に含まれている。当然のことながら271という件数はあくまで報道がなされた苦痛だけであり、実際の件数はこれよりも遥かに多いだろう。また事件にならないようないじめや喧嘩、親に叱られるといった事柄まで含めれば途方も無い数になることは言うまでもない。こうした苦痛は避けようと思っても避けられるものではない。まさにベネターの言う全弾装填済みのロシアンルーレットの如く、毎日誰かの親の子供に被弾するのである。

ところで、本文においてはあまり紙面が割かれていないが、ベネターは人間以外の苦痛についても言及している。

ここで私は人間の苦痛にだけ焦点を当てているが、私たちが住む星を共有している数えきれないほどの動物たち――そこには人間が食用とするためや、他の目的のために虐待され殺される目的だけで、毎年存在させられることになる数えきれないほどの動物たちが含まれる――が被っている苦痛についても考慮すると、楽観主義者が描いている世界は更にもっと理に反しているものになる)¹⁸。

このようにベネターは人間だけでなく動物の苦痛についても着目しているのだが、それは基本的非対称性と存在害悪論が人間以外の動物にも当てはまるということ、そしてベネター自身がヴィーガン(完全菜食菜食主義者と訳され、食事以外の日常生活においても動物を搾取するような製品の使用をしない者を指す)であることに起因している。本記事における反出生主義は人に限定しているが、ベネターの反出生主義は動物も含むことに注意したい。

さて、ここまでベネターの反出生主義の第二部として人生がいかに悪いものであるかと、そのような人生を良いものであると思ってしまう心理的現象について整理してきた。本文第3章以降の子供を持つことや人工妊娠中絶などについては、次回私が独自に定義づけた「実存的出生肯定(者)」と呼ばれるような当たり前に子供を作る普通の人々について論じる際にその都度参照するといった方式によって取り上げたいと思う。加えてベネターに対する批判もそこで紹介することとする。


⁹ 同上 p.79
¹⁰ 同上 p.76
¹¹ 同上 p.77
¹² 同上 p.79
¹³ 同上 p.102
¹⁴ 独自調査(全国の通信社および新聞社のウェブ記事から20歳未満の子供が被害に遭う事件や事故をまとめたデータからの数値)
docs.google.com
¹⁵ 岩田恵実、滝口信之、高島曜介「3歳女児放置死、母親を起訴 刑事責任問えると判断か」『朝日新聞』2020年10月23日
¹⁶ 「自宅マンションで子供2人殺害、タイ人母を逮捕 東京・吉祥寺」『産経新聞』2020年3月23日
¹⁷ 浜田知宏「児童虐待、昨年度は19万件超 過去最多で増加数も最大」『朝日新聞』2020年11月18日
¹⁸ デイヴィッド・ベネター 前掲書 p.99

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