『ハンス・ヨナスを読む』を読む④

ハンス・ヨナスの思想を巡る旅路もそろそろ終りが見えてきた。④ではヨナスの提唱する未来倫理とその核をなす責任について整理していくこととしたい。

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未来倫理と責任について

 
科学技術の発展に伴い、今ここにいない未来の人間へ影響を及ぼすことができるようになった人類は既存の倫理学では通用しない時代を生きることを余儀なくされている。現在の遺伝子技術や核技術が長い時を経て将来の人間に深刻なダメージを生じさせた時、そこにはもうその元凶となった人間はとうの昔に死んでいて倫理的配慮という責任をとろうにもとることのできないということが現実に起こりうる時代。そうした時代に求められる新しい倫理学には「話し合い」や「同意」といった既存の倫理学に基づく手法では自ずと限界がある。なぜなら未来の人間は今ここに存在していないし、未来の人間が存在しているとき我々は既に消えているからである。ではヨナスはどのようにして未来および未来の人間への責任を基礎づけ、既存の倫理学に囚われることなく新しい倫理学を構築したのだろうか。

一見すると人類が今後も新しい人間を生み出し遠い将来も存在し続けていることは当たり前の感覚、あるいは直感として間違っていないように思える。そうであるならば何も人類が存続していることを責任づけ、わざわざ人類に次の世代の誕生を責務として課す必要はないように思われる。しかしながらヨナスは「良心的なペシミスト」によって人類の存続が良心によって怠るような事象が発生することを危惧していた。それはまさにヨナスがナチスドイツによるユダヤ人への迫害および第2次世界大戦を経験したことで生まれる普遍的な価値観であった。ヨナスは『責任という原理』においてそうした良心的なペシミストによって人類の存続が脅かされることについて次のように述べている。

〔人類の存続への責任が自明ではない。〕何故なら、十分暗い予知が成り立つとき、良心的なペシミストなら、「それにもかかわらず」生殖を続ける人々を無責任だと断定するかも知れないからである。彼は自分では生殖を避け、無責任な人々の作る子どもたちに対する責任を引き受けることも拒否するだろう¹。

ヨナスはこうした良心的なペシミストの存在を認識した上で、「話し合い」や「同意」に拠らず、また人間の良心によって逆説的に人間の存在が毀損されることなく、生命という存在それ自体を根拠とした未来倫理の構築を目指した。ヨナスの未来倫理は次のように要約される。生命の存在はそれ自体が善であり、人間はそうした生命の中でも責任を負うことのできる唯一の主体である。同時に未来の人間が存在していることは善であり、そうした存在を毀損することがないよう我々は未来および未来の人間に責任を持たなければならない。これがヨナスの未来倫理である。ではなぜ生命は存在それ自体が善であり、またなぜ人間だけが責任を負うことができるのだろうか。そしてなぜ存在していない対象に対しても責任を負わなければならないのだろうか。それぞれヨナスの理論を整理していこう。

生命の存在それ自体が善であるとはどういうことか。そもそも「生命の存在それ自体が善である」と言うとき、それは例えば何らかの道具のように何かの役に立つから善であるということでは決してなく、内在的に価値があるものであるということを意味している。しかしながらこうした善は内的なものであるが故に、自分にとって善であるだけという独善的な存在にすぎないのではないかという意見も見受けられるだろう。これに対してヨナスは生まれたばかりの乳飲み子と対峙した時に生起される直感を例に挙げ、こうした直感は生命が存在それ自体が善であることを基礎としているのだと述べた。

生まれたばかりの子ども。その呼吸は、ただそれだけで、周囲に対して反論の余地なく、自分を世話することへの当為を向ける。見れば分かることである²。

こうした生命を庇護しなくてはという倫理的配慮を感じずにはいられない直感は非生命である河原の石を見たときには惹起されないものである。ヨナスは「倫理的な行為を動機付けているのは、倫理の原則ではなく、世界のうちで起こりうる、それ自体としての善の訴えである³」と述べ、我々が感じるそうした直感やそれに依拠した具体的な行動は「か弱い赤ちゃんを大切にしなければならない」といった倫理的な原則によってではなく、ましてや「自分の子供だから」といった独善的な理由でも「助けてくれ」と言われたからではない。まさしく生命それ自体の善によって突き動かされているのである。もちろんこうした生命を前にしても実際には様々な理由から助けないということはある。しかしそれだけで生命それ自体の善が崩れ去ったことにはならない。なぜなら助けようが助けまいが我々はひとたびこのような生命を前にすればその「呼び声」に否が応でも触発されてしまうからである。つまり生命に向けられるそうした直感は、同情や共感といった主観的な領域ではなく、生命それ自体の善から発せられる客観的な領域に依拠しているのである。

ヨナスは自然科学の還元主義的な手法から生命を解き明かすのではなく、現象学的記述によって生命を生命として捉えることを試みた。生命は代謝を通じて自己を維持し、世界から自由でありながら同時に依存している。そしてこの絶え間なく試みられる代謝という現象によって生命は常に死と隣り合わせになりながら未来という次の瞬間へ存在を維持することができるのである。この未来のために生きているという生命の営みにヨナスは生命の目的論的性質を見出した。ヨナスはここから生命という存在は内在的に価値を持ち、生命が存在することは善であるという公理を導いたのである。

こうした倫理的配慮の対象は乳飲み子だけにとどまるものではない。ヨナスは責任の対象になる生命を次のように説明している。

すなわち、(a)生物が常に本質的な脆弱性においてそうであるように、価値を持った存在が傷つきやすいものである場合であり、そして(b)その存在が、そうした傷つきやすいものとして、私の行為の圏域に入り込んでおり、私の力にさらされている場合だ。それがたとえ偶然にであっても、私自身の意志によってであっても変わらないが、後者の場合には、それだけ義務は強力になる⁴。

ここでいう本質的な脆弱性とは、常に死の可能性にさらされているという生命の宿命的性質のことである。それ故、責任の対象は常に生命であり、非生命は責任の対象には当てはまらない。そしてそうした生命の中でも私のさじ加減ひとつで生かしも殺しもするような場合に責任の対象となるのである。つまり健康で獰猛な大型の肉食動物は責任の対象にはならないが、そうした肉食動物が瀕死の重傷を負っている時などは対象となりうるのである。

一方で責任の対象が(傷つきやすい)生命全般であるのに対し、責任の主体は人間だけである。なぜなら責任を負うためには責任能力が必要であり、責任能力には自由が必要であるからである。先に述べたように人間は他の生命と異なり、生存に必要な行為以外行わないという有用性に支配された世界から脱却し、人間特有の自由の次元を獲得した。それは像を描くという抽象的で大きな概念として説明される。そして責任を負うという行為は、人間としてどのように生きるかという人間像から導かれる利害関係を超越したまさしく人間的で自由な行為である。利害関係から自由は有用性から自由のなせる業というわけである。だから責任の主体としての資格がある生物は人間の他にいないのである。

以上が責任の主体と対象、そしてその対象から発せられる呼び声を感じる直感の源泉としての生命それ自体の善である。しかしながらこれだけでは未来および未来の人間への責任を基礎づけることはできない。なぜなら未来の人間は今ここに存在しておらず、責任の対象になり得ないからである。ではヨナスはどのようにして未来の人間への責任を基礎づけたのだろうか。ここで責任の主体について今一度確認しよう。ヨナスによれば、責任の主体になることができるのは有用性の支配から脱却し像を描くことができる自由を持つ人間だけである。人間だけが責任の主体たり得るということは、人間が絶滅してしまった世界では誰も責任の主体になることができないことを意味する。ここに新たな責任、つまり「責任の主体である人間を存在させ続けるという責任」および「責任を可能にさせる責任」が生じるのである。ヨナスはこのような責任を「責任が存在するという可能性が、すべてに先行する責任である⁵」と述べ、この責任を「存在論的命令」と名付けた。一方で、乳飲み子を庇護するといった具体的な責任を「個別的命令」とし、両者を区別した。前者は責任が存在するために責任の主体が存続し続けることを義務付け、後者はその責任の主体によって行為される様々な個別的な責任を表している。ヨナスがすべてに先行する責任と述べたように、存在論的命令は常に個別的命令より優先される。例えば、この地球に生息する動植物の保護という意味での地球環境保護という個別的命令のために、地球環境を悪化させている人類を絶滅させることが存在論的命令に反するように、あくまで人類は責任を負うことのできる唯一の主体としてその存在を維持しなくてはならないのである。この点において存在論的命令と個別的命令とは特に対立する。

ヨナスは責任を負うことのできる唯一の主体である人間が、内的に価値のある生命を責任の対象としてその責任を負うこと、そしてその責任を負うという可能性に責任を負うこと、この2つの責任によって未来への責任を基礎づけた。一方でヨナスの未来倫理は、責任が存在する世界は責任が存在しない世界より無条件に良く、生命は内在的に善であるという公理を出発点としている。この点で既にこれを受け入れることができない者にとってはヨナスの未来倫理は脆くも崩れ去ってしまうという形而上学的な弱点を内包している。その点についてヨナスはこのように述べている。

しかし、結局のところ、私の論証は理性的な仕方で一つの選択肢を基礎づけること以上のことはもはやできない。その選択肢は、その内的な説得力によって、思慮深い者たちにとっての選択の候補にはなる。残念ながら、私にはもっといい選択肢を提供することができない。おそらく、それは未来の形而上学がなしうることだろう⁶。

このようにヨナスは自身の未来倫理に限界を感じながらも、未来にさらに良い倫理が生まれることを期待している。それはまさしく存在論的命令によって生み出され続ける人間が、卓越した自由によって紡がれた人間像の連続が織りなす総体として歴史の漸次的な進歩を望んでのことなのだろう。

ハンス・ヨナスの出生主義

 
ここからはヨナスの出生主義について考えていきたい。ヨナスはベネターなどの反出生主義が「人は生まれ始めない方が良い」と言うように「人は生まれ始めた方が良い」と言っているわけではない。ヨナスの出生主義とはヨナスの哲学から敷衍される責務の産物に他ならない。例えば先に述べた存在論的命令はヨナスの出生主義的性格を端的に表現している。存在論的命令は「責任が存在するという可能性への責任」である。つまり責任を負うことのできる人間が存在するという可能性への責任であり、人間を存在し続ける責任である。この点においてヨナスは人類に対し、人間を出生させることを責務として課しているのである。ヨナスは新しい世代の人間を生み出すことの意味について次のように述べている。

このことが意味しているのは、私たちは未来の人間の権利を見守らなければならないのではなく、――つまり、幸福になる権利を見守らなければならないのではないし、そしてそれは、幸福という不安定な概念に基づく限りいずれにしても扱いにくい基準だろう――、未来の人間の義務を、言い換えるなら、真に人間として存在するということへの義務を見守らなければならない。つまり、未来の人間がこの義務を引き受ける能力をもつことが見守られなければならない⁷。

ここにヨナス流の子供を生み出すことの理由が端的に示されている。ヨナスにとって子供ないしは新たな人間を生みだすことは何もその生まれてくる人を幸福にさせるためではない。ヨナスにとってそれは、人間として責任の主体になることを義務として引き受けさせることなのである。戸谷がこうしたヨナスの特徴について「子どもを出生させるということは、ある『強制的性格』を帯びているのであり、出生は『贈る』ものではなく、『課す』ものとして捉えらえる⁸」と説明しているように、ヨナスにとって出生とは、生み出す側が存在論的命令を履行した結果であり、生まれた側にとってはその命令を履行されたことによって生じた結果としての産物であって、幸福や愛情といった代物では本来ないのである。だからこそヨナスの文脈でいうところの反出生主義者である「良心的なペシミスト」が子供の幸福を理由に存在論的命令としての出生を拒否することはヨナスにとっては認められないのである。

ただし存在論的命令が指し示す子供と良心的なペシミストが指し示す子供は質的に異なることに注意したい。良心的なペシミストの子供とはさしずめ私と私の配偶者などとの間に生まれ、痛みを感じるある程度具体性を持った可感的な存在者である。一方でヨナスの存在論的命令の子供とは次のようなものである。

この抽象的な責任〔・・・〕のもとでは、確かに一人の子どもを作る義務は成立する。そう仮定しよう。だが、ほかでもないこの子を作るという義務は少しも成立していない。何故なら、その子の、ほかでもない「この」という性格(Diesheit)は、その子が実際に生まれるまでは予見不可能だからである⁹。

つまりこの次の世代を生み出す責務とは他でもないあなたを存在させることにはならないのである。親が生み出す子供とは誰でも良いのである。この点においてヨナスはさらに踏み込んで生み出されたことを悲観的に考える「良心的なペシミストのたまごたち」に次のような言葉を投げかけている。

「なぜ私をこの世に生んだのか」と、非難を込めてであろうと別様であろうと、子どもが親に尋ねることは本来はできない。なぜなら、この「私」のもつ個別性に対して、親は何ら影響力を持たなかったからである。「なぜ子どもを一人この世に生んだのか」という問いなら可能である。これに対する答えは、こうである。そういう罪を犯したのは、それが義務だったからだが、この義務はまだ存在していなかったお前に対しての義務ではなく(そんな義務はない)、人間全体に対する義務である。

この責務が生み出す人間の誰でもよさと、実際に生み出された人間の他でもなさとの対立は存在論的命令によって非常に鋭く浮き彫りになっている。良心的なペシミストのたまごや反出生主義者たちは「人間全体に対する義務もない」と言うだろうが、ヨナスの公理に立脚すれば、それは義務なのである。だからといって闇雲に子供を作ることを暗に示唆しているわけではない。繰り返すが、存在論的命令は「責任が存在するという可能性への責任」である。つまり責任を負うことのできる主体が人間だけであることは確かだと仮定しても、人間がただ存在しているだけでは乳飲み子が自分では何もできないことと同様に意味がないのである。だからこそヨナスは事実として人間が存続しているだけでなく、質的にも人間が存続していること2つが共に存在していなければ存在論的命令を履行したことにはならないとした。人間が事実として存在していても、機械や独裁国家などによって自由に像を描くことができなくなっては質的には人間は存在していないことと同義なのである。だからこそ子供を生み出して「はい、おしまい」とそれ以外の責務を放棄することはできない。ヨナスの説く責任には事実としての存在論的命令だけでなく、質的な意味での存在論的命令、そして乳飲み子の例に代表されるような個別的命令も存在しており、それらもまたヨナスの説く責任に他ならないからである。

ここまでヨナスの生命哲学と未来倫理、そしてそれらの思想から導かれる出生主義的思想について論じてきた。彼の思想は形而上学的命題に立脚したもので、命題そのものの基礎づけは不可能という点はあるものの、既存の倫理学では対応が難しい時代を先取りした斬新な思想である。またそこから人類に課せられる生み出し続けるという暴力性を秘めた責務はまさに反出生主義と徹底的に対立していると言える。

¹ 森岡正博ほか 現代思想2019年11月号『特集=反出生主義を考える-「生まれてこないほうが良かった」という思想-』青土社,2019年,p.171(戸谷洋志『ハンス・ヨナスと反出生主義』)
² 同書,p.172
³ 戸谷洋志『ハンス・ヨナスを読む』堀之内出版,2018年,p.131
⁴ 同書,p.135
⁵ 同書,p.156
⁶ 同書,p.175
⁷ 森岡正博ほか,前掲書,pp.174-175
⁸ 同書,p.175
⁹ 同書,p.176
¹⁰ 同書,p.176