「ごっ魂ぜ」vol.3 好評発売中

深夜1時、あーでもないこーでもないと入稿作業をしていると、受け身的な消費に流されがちなこの時代において、よくもまあここまで抗っているものだという感慨と遅れてやってきた青臭い気概とが秋の夜風に溶け込み心地よい。気づけばナンバリングは"3"となり、連載していた論考もひとまず終止符が打たれることとなった。ミイラ取りがミイラといえば話は早いが、小児性愛陰謀論なる思想はただの露悪的なトンデモ陰謀論なのではなく、この世の子供を巡る倫理の誤謬に大真面目に風穴を開けるほどの魂(たま)を兼ね備えていたのだと語り継いでいきたい。

『ごっ魂ぜ』vol.3収録、笹本パンダ「陰謀論・子供・小児性愛(三)」より

―――西暦2540年・サウジアラビア

「このようにアメリカ合衆国は性倒錯したオカマ、東アジアの国々は母親によって量産された非力なガリ勉によって再生産が阻害され、他国と戦争することなく滅亡するという歴史を辿りました。では次は体育の授業です。一家の長として妻や女子供の上に立つ男として肉体を鍛えましょう」

…どうやらそう遠くない未来でも見ていたらしい。パターナリズムの権威に裏打ちされたイカれた性道徳とモノガミーの上に成り立つ再生産的未来主義とを併せ持った国家たちの行く末を。こうした国家に属する民族はこのままでは遅かれ早かれ消滅する定めだろう。誰も子供を作らなくなるし、作ったとしてもその数は民族を維持させるよりも少数なのであらゆる子供の様々な価値は前時代の同世代に対しても、同時代の他年代に対しても相対的に上昇する。価値が上昇すればその民族の内、真面目な部類は尚更その価値に躊躇し腫れ物に触るかのように扱うため、ある者は抑鬱的になり、ある者は2人目、3人目を諦め、またある者は子供ないしは結婚自体を諦める。やがて悪貨が良貨を駆逐するまでこの負のスパイラルから抜け出すことはできなくなる。

要するにだ。子供の価値が前世紀に比べ高すぎるのだ。何もできない、放置していれば勝手に死んでいくような生き物にどこまでも情けをかけてしまうほどにこの国の人間は弱くなってしまった。醜い生老病死のすべては病院や介護施設、警察、葬儀場あるいは各家庭といった箱に仕舞い込まれ秘匿され、可愛いモノだけに囲まれてしまった成れの果てがこのザマだ。食料品店のトマトですら可愛い形しか売られていないのだ。規格化された可愛さに骨の髄まで毒されている。本来、子供の価値とは可愛さではなく代替可能性の高さに他ならない。0歳児の死は10ヶ月後に元通りになる。そこにこそ価値があるのだ。だがそうした事実とは裏腹に一昔前なら死んでしまうような未熟児や新生児に高度な医療を施せばどんな形であれ生かし続けることが可能になったという事実に異論を挟む者は現れないし、事故や虐待で子供が死ねば官民を挙げててんやわんやの大騒ぎ。全国津々浦々、平日は欠かすことなく数十万もの児童が保育園や幼稚園へバスに乗って登園していたら1人や2人は大人のうっかりミスで死ぬのは仕方ないとでも言えば袋叩きに遭ってしまう。

日本列島改造論により国土はコンクリートによって強くなったが人は弱くなっていった。四畳半の下町のボロ屋に家族7人が肩を寄せ合いながら暮らす世界観は、ニュータウンの建設ラッシュと恋愛結婚と見合い結婚の逆転により誕生したニューファミリーによって破壊され、さらに中国からやってきたパンダの可愛さの虜になってしまったことで戦後の不撓不屈の精神も同時に消滅することとなった。続く再チャレンジもコンクリートから人への移行もうまくいかなかった。気がつけば可愛さと推しを信仰し、ミームに頼った会話に傾倒するあまり個を喪失した。全成員が監視カメラを有するパノプティコン的世界の完成に伴い、自身の意見を表明することは恋愛における告白すら冷笑の対象となり、リーガルでありながらも逸脱した行為は撮られ、晒され、人民裁判にかけられる。そして売春と梅毒が蔓延る傍ら、ついに売春以外のセックスは潜在的に犯罪と見做されるようになってしまった。

不同意性交罪は共感が足りないから片手落ちだ。同意があったかどうかの判断など現行の裁判制度では裁判官の主観によるものでしかない。だが共感だけでも恋愛と同義で不安定だ。さて、いよいよ劣化したインフラと相まってありとあらゆる再生産がままならなくなってきた。雌化する男、生まない女、固着化する階層、漸進的に減少する人口、資本家に与する労働者。クルド人は着々と勢力を拡大している。女子には教育を施さず家に押し止め、男は解体現場で汗を流す。かつてこの国が富国強兵の大号令に右へ倣えしたように、この組み合わせは民族の興隆を促すにはぴったりだ。なぜなら男女の役割がはっきりしている。役割がはっきりしていれば後は各々の責務を全うするまでだ。自分探しもいらない。クィアだのアライだの余計な「性別」も必要ない。生むか働くか、そのどちらかしかない。だが男女は平等なほうがいい。柿の木問答は我々に古式ゆかしい郷愁を感じさせ、たちまちノスタルジーの渦中に誘ってしまうことだろう。だがそれでは正常位が関の山だ。男女は平等な方がセックスに多様性が生まれる。多様性とは本来この意味で用いられるべきなのだ。しかしこのまま空想するばかりではジリ貧だ。

だからといって肉体労働と出産以外に男女間の分業が薄まった現代に再びジェンダーロールを巻きつけることなど不可能だ。男はもはや一家の大黒柱としての責任を負いたくないし、女も何人も子供を生んで家庭に縛られたくないのだから。ならばいっそのこと極限まで男女の差異をなくしてしまえばいい。出産すらも女固有の役割から解放する。もう誰も家庭に責任を持たないし乳幼児の育児などというプログラマティックな行為に注力して心身を壊すこともない。その上で冷徹で非情な密告監視社会を目指すわけではないとすれば、必要なのは共感と同意だ。共感と同意を統合して再びこの国を強靭化していく。国家改造論者でも誇大妄想狂でもなんでもいい。国家というシステムを私が再構築する。

続きは総合文芸批評誌『ごっ魂ぜ』vol.3で
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