チャイルドフリーについて

チャイルドフリーとは

反出生主義は自分を含む全ての出生を否定し、その結果として子供を作らないという選択をするものである。では同じ子供を作らないという選択をしながらも、全ての出生を否定するわけではない考え方はあるのだろうか。それはチャイルドフリー(ChildfreeまたはVoluntary childlessness)という思想である。チャイルドフリーは個人として、あるいは夫婦またはパートナーとして子供を持たないという選択をするという個人主義に基づく考え方であり、反出生主義のように他者が出生することを積極的に否定するものではない。チャイルドフリーは旧来の家族形態が都市化や核家族化などに伴い変化し、多様な生活様式や働き方などが受容されるようになったことで広まりを見せている。それは出生率の低下や生涯未婚率の上昇などからも明らかな現象である。しかし人類が子供を持たないことを選択したのは何も今になって始まった話ではないと歴史学者で『How to Be Childless: A History and Philosophy of Life Without Children(子なしになる方法:子供のいない人生の歴史と哲学)』の著者であるレイチェル・クラスティルは言う。子供を作らない女性は少なくとも19世紀から存在しており、1885年から1915年の間に生まれたアメリカ人女性の5人に1人は子供を作らなかったと言われている。こうした傾向は第二次世界大戦後のベビーブームで一旦は収束するが、その後も女性の社会進出やフェミニズム運動の高まりから再び息を吹き返し、現在のような世界的な少子化の流れに繋がっていると彼女は述べている¹。このようにチャイルドフリーは女性と密接な繋がりがある思想という特徴がある。これは反出生主義を掲げるないしはそれについて研究している者の多くは男性であることからしばしば「産む性」としての女性の精神的、肉体的負担について見落としがちになってしまうこととは対称的である。なお、子供を望みながら実際に子供がいない人々はチャイルドフリーではなく不本意な子なし(Involuntary childlessness)と呼ばれており、両者は明確に区別される必要がある。

そうしたチャイルドフリーという思想について、フランスの精神分析医であるコリーヌ・メイヤーの著書『No Kids: 40 Good Reasons Not to Have Children (ノーキッズ:子供を作らない方が良い40の理由)』を手がかりに生み出す側、生まれる側の視点と巨視的な視点との3つ視点から子供を持たない方が良いというチャイルドフリーの思想を整理していきたい。先に述べたように反出生主義は生まれることを、生み出される側の視点や反対に宇宙といった超鳥瞰的な視座からこれを否定している。これは生み出される側の人間の生まれ始めるという生成を全否定しているのだが、チャイルドフリーの特徴はそこまでの極端さは有していないところにある。チャイルドフリーはあくまで現実的なレベルで新たな子供の誕生を主に親の視点で否定しているのである。例えば子供を持つことは精神的にも肉体的にも「親」の健康を損なう恐れがあるといったように、チャイルドフリーは普遍的な子供の誕生の否定というよりも、自分が子供を持つことは自分にとってこのような害があるというような至極実存的なレベルでの親になることの否定なのである。

またチャイルドフリーは反出生主義と異なり、すべての出生を否定しているわけではない。このことから反対にどのような理由であれば子供を持つことが許容されるのかという点について、アメリカの哲学者であるリヴカ・ワインバーグの著書『The Risk of a Lifetime: How, When, and Why Procreation May Be Permissible(人生のリスク:いつ、どのようにして、どのような理由で子作りが許されるか)』を参考に整理していきたい。

子供を持たないほうが良い理由

前述の通りチャイルドフリーは個人主義的な性格を帯びている。反出生主義が他者の出生を否定するという暴力的な側面を持ちながら、生まれ始めないことによる苦痛の排除という観点からのある種の利他的な当為を惹起させるのに対し、チャイルドフリーはその多くが利己的な理由によるものが多い。そのため、先に挙げた例の他にも子供がいない方が楽しい暮らしをおくることができるとか、子供が嫌いといった理由もれっきとしたチャイルドフリーである理由になりうるのである。このようなチャイルドフリーの特徴について本項ではコリーヌ・メイヤーの著書を参照しながら親の視点、子供の視点の双方から論じていく。

子供を持つことを望むことについて、メイヤーは「あらゆる犠牲を払って子供を作ろうとすることは平凡さの極致です」と述べている²。その上で他者と同じように子供を作ることは安心感があることは認めつつも、既に両親が他界した人が親を持つ権利(right to have parents)を要求することがばかげているように、子供を持つことは権利ではなく単に可能性でしかないと論じている。彼女にとって子供を作るということは何らかの主体に保障された行為ではなく偶然の産物にすぎず、有り体にいえば、「やらなくても良いのに敢えて行うこと」なのである。では敢えて行うことを否定するような具体的な理由とはなんだろうか。本項ではメイヤーが挙げるその理由を親の視点、子供自身の視点、巨視的な視点の3つから整理していきたい。

まず親の視点から考える子供を持たないほうが良い理由としてメイヤーは出産の苦痛、子育ての苦痛を挙げている。彼女は出産に関して「出産の喜び?それは洗脳です。出産は身体がチューブ状になっているごく少数の女性を除いて苦痛です」という評価を下している³。出産は主に経膣分娩と帝王切開に分けられるが、経膣分娩は普段閉じている子宮口が胎児の頭の大きさまで広がり、子宮および会陰部に強烈な痛みが生じる。現代では硬膜外麻酔による無痛分娩が先進諸国を中心に広く普及しているが麻酔の前後は通常の出産と同様に痛みがあり、実際には無痛というわけではない。また帝王切開も出産自体は麻酔が施されているが、術後の痛みは腹部を切開している以上は相当なものであることは想像に難くない。

そしてこのような苦痛は出産だけにとどまるものではなく、子育てにおいても普遍的に存在するとメイヤーは言う。彼女は子育てについて次のように述べている。

子供のいる人生は人生を矮小化したものです。毎日同じ時間に起きて子供を託児所や幼稚園、学校に連れていき、仕事へ行く。そして仕事が終わると急いで帰宅し、彼らのお風呂や宿題、夕食、就寝の面倒を見る。毎日それだけ。

このようにメイヤーは出産のような一時の苦痛以外にも子供がいなければ存在することない日常の子育ての中で生じる苦労についても子供を持たない有力な理由の1つになるとしている。成人にとっては何の不都合もない事柄も子供自身にとってはさながら冒険に近しいといったことは往々にして存在する。例えばコップに飲み物を注ぐという行為も、その飲み物の重量を支えきれず零してしまうことはよくあることである。他にも服を着ること、歯を磨くこと、就寝することなど日常の様々な動作が子供にとっては大変な作業であり、またそれを支える親にとっても気苦労の絶えないことである。また子供は身体的に未熟であるばかりでなく、精神的にも未熟である。彼らはすぐに癇癪を起こし、他者や動物に対して良心の呵責に苛まれることなく暴力を振るう傾向にある。こうした子供の特性についてもメイヤーは以下のように述べている。

子供は他のお友達のおもちゃをつかんだり、公共の場で恥をかかせたり、殴ったりすることを何とも思っていません。子供は文句を言うのが大好きだからです。子供はその性質上、常に自分が被害者であると考えており決して責任も罪もないのです。

彼女は子育ての苦労は日常のありふれた動作のみならず、ちょっとした暴力といった事件などもそれに含まれると述べ、こうした無邪気さを隠れ蓑にした邪悪さを兼ね備えた子供をミシェル・ウエルベックを引用して「悪意に満ちた冷酷なドワーフの一種」と評している⁴。もちろん子供もいつまでもそうした冷酷な小人でいるわけではない。しかしそうした小人が徐々に青年になり始め、冷酷であることを原因とした苦労が減ると今度はそれと反比例するように増える苦労がある。それは教育費である。メイヤーは教育費を含む諸々の子育てに係る経済的な負担もまた子供を持たないほうが良い理由として挙げている。文部科学省の調査によると子供1人を幼稚園から高等学校まで通わせると、すべて公立の場合でも約541万円、すべて私立の場合では約1,829万円の学習費が必要であるという⁵。これには日常生活に係る費用は当然計上されておらず、実際の子育て費用は当然これらよりも多いものであると考えられる。このように親という視点に立つことで見えてくる子供を持つことで生じる苦労や苦痛は(女性の場合は特に)多種多様であることがわかる。またこのような理由は反出生主義における子供を作るべきではない理由と比べると明らかに利己的であることが伺える。

次に子供の視点から考える子供を持たないほうが良い理由についてメイヤーの見解を見ていこう。彼女は幸福であるとはどういうことか誰も知らないにもかかわらず子供を作るということは不誠実であると以下のように述べている。

幸福という言葉の重要性が高まったのは、何世紀にもわたり、人類が進歩してきた結果です。なぜなら明日は今日よりも良くなると常に信じてきたからです。しかしながら子供に今日の幸せを約束することは不誠実な行為です。地球の未来についての小さな一節を語るつもりはありませんが、そこに明るい話題はあまりありません。私たちが直面している問題はオゾンホール、地球温暖化森林伐採と魚の乱獲です。特に将来の世代であるあなた方はその代償を払わなければならないのですから。

こうした地球環境の悪化に伴う自然災害など自身の力では回避することか難しい事象としてメイヤーはこのほかに犯罪被害、特に性犯罪に巻き込まれるといった可能性についても憂慮している。こうした一定の確率で誰かが直面してしまうことが明らかな事象は第1章(1-2-3)でも述べてきたことである。たとえ人権が保障された民主国家であっても本質的には何も守られていないのがこの世界の理である。そうした世界に子供を生み出すことは場合によっては子供に否応なしに苦痛を生じさせることにもつながりかねない行為である。このようにチャイルドフリーには前述のような利己的な側面だけでなく、子供を思うからこそ子供を持たないといった利他的な側面もあることが理解できる。こうした側面は反出生主義ともある程度親和性があるように推察される。

最後に巨視的な視点としてチャイルドフリーでいるべき理由を見ていこう。メイヤーは先進国には既に子供が多くいることを子供を持たないほうが良い理由として挙げ、次のように論じている。

問題は深刻な環境汚染です。人口が比較的少ない先進国が世界のエネルギー資源の3分の2を消費しています。実際には、地球上に人が多すぎるのではなく、金持ちが多すぎるだけなのです。私たちは地球の泥棒であり、消費量を増やし続けているのです。世界で最も貧しい人々の不利益になるような消費をさらに増やす子供たちを産むことは、本当に意味があるのでしょうか?誰も私たちの子供を必要としていません。私たちと子供たちは、地球の滅亡に向かって真っ直ぐに向かっている地球の甘やかされた子供なのですから。もしあなたがヨーロッパやアメリカに住んでいるなら、子供を持つことは不道徳です。常に限られた資源を無駄にして貪欲なライフスタイルを送り、常に浪費し、常にガソリンを消費し、常に環境を破壊している。豊かな国で子供を持つことは、国民の行為ではありません。

これは子供の視点から考えることとも通じる利他的な理由である。我々のような先進国の豊かな暮らしは発展途上国などの犠牲の上に成り立っていることは否定できない。安くて高品質という本来相反するような製品類を陰で支える人々のことを先進国に住む我々はつい忘れがちになってしまう。ここにさらに新しい子供を生み出すことで貧しい国々を搾取し、地球環境を悪化させ、その新しい子供自体にも場合によっては危害を加えてしまうという行為に合理性を見出すことは難しい。メイヤーは著書の最後を「No Kidsは我々が連帯し保護し合うことで合理的に達することのできる目的地です」 という文で締めくくっており⁶、これまでに挙げた子供を作らない理由を差し置いて新たに自分が子供を作る理由はエゴイスティックな理由を除けば存在しないと論じている。

子供を持つことが許容される理由

メイヤーの主張からも分かるようにチャイルドフリーは合理的な到達点であるが、裏を返せばエゴイスティックな理由から他者が子供を作ることまでも否定するものではなかった。チャイルドフリーのこうした特徴は、すべての出生を否定する反出生主義と異なり、自身のOQL(クオリティ・オブ・ライフ)を主に重視する結果という点でまさにプラグマティックな考えであることが理解できる。

ではこうしたチャイルドフリーを合理性の面から理解しながらも、子供を持ちたいと思う人がいるとき、それはどのような理由を以って正当化することができるだろうか。チャイルドフリーが「無制限に子供を持つこと」を否定するものであるならば、「制限的に子供を持つこと」を肯定するといった理論、いわばチャイルドフリーを反対側から支える「こういう理由なら子供を持っても良い」とする考え方はあるのだろうか。リヴカ・ワインバーグは著書にて、「出産許容性原理(the principles of procreative permissibility)」と呼ばれる原理を提唱し、どのような理由があれば子供を持つことが許容されうるかについて述べている。

子供は親の都合によって勝手に生み出されるため、親と子供との利害は常に一致しているわけではない。その例としてワインバーグは、親はいつ子供を作るかといったことに関心がある一方で、子供は優れた条件で生まれることを望むという利益相反があると主張する⁷。こうした絶対的に優位な立場にある親とそれに従うしかない子供との不均衡さを是正するために提唱されたのがロールズの正義論を手本にしたワインバーグの出産許容性原理である。出産許容性原理は以下のように2つのシンプルな原理から成っている。

(1)「Motivation Restriction(モチベーション制限)」

Procreation must be motivated by the desire and intention to raise, love and nurture one's child once it is born⁸.
(子供を作る行為は、子供が生まれたらその子供を育て、愛し、伸ばしていきたい、という願望と意志によって、動機づけられていなければならない)

(2)「Procreative Balance(出産バランス)」

Procreation is permissible when the risk you impose as a procreator on your children would not be irrational for you to accept as a condition of your own birth (assuming that you will exist), in exchange for the permission to procreate under these risk conditions⁹.
(何らかのリスクがある状況で子供を作る場合、あなたが親として子供に課すリスクが、あなたがその子供に生まれてくることを条件〔この場合あなたはその後も存在し続けると仮定する〕として受け入れることが不合理でない時に限り子供を作る行為は許容される)

前提としてワインバーグは、ほとんどすべての生殖行為は誤りであるという主張と、同意なしに子供を生み出すことは許されないという主張とを、人生の良さとは主観的なものであり、客観的にその悪さを示すことができないという点と存在していない者から同意を得ることはできないという点からそれぞれの主張を退けている。一方でワインバーグはすべての生殖を無制限に認めているわけではない。その上でワインバーグは、親は配偶子(精子および卵子)というあらゆるリスクや可能性を秘めた人間を生み出すもとになるという意味での危険な物質を所持しているという点から、子供を作るという行為が許容される時とそうでない時とに分けている。

(1)のモチベーション制限は跡継ぎのためや老後の世話といった道具的価値を子供に見出すことや、望んでいなかったができてしまったといった不本意で動機のない生殖を否定している。この点でシンプルで分かりやすいと言える。一方で(2)の出産バランスに関しては少し分かりにくいように感じられる。ここでワインバーグが暗に指摘しているリスクとは病気や貧困についてである。ワインバーグは、子供を作る行為をすれば生まれてくるであろう子供が、親の加齢により罹患の可能性が増すダウン症候群などの染色体異常症や、テイ・サックス病などの常染色体劣性遺伝病(両親が保因者の場合、1/4の確率で罹患児が生まれる)といった病気になる可能性が高い時、その行為は許容されるものではないと主張する。また貧困などの経済的な問題を抱えている場合は、親子関係は貧しい親であってもあらゆる利益をもたらすため子供を作る行為自体は許容されるが、生み出す人数については1人または2人に制限するべきだと主張している。ワインバーグにとってはそうした状況下で生まれてくる子供が自分であり、さらにその自分がその家庭で存在し続けるものと仮定した時、生まれてくる条件としては不合理であるということである。このようにワインバーグはこの2つの原理を以って子供を作る行為という行為が構造的に抱える不公平さを是正することを意図している。

一方で森岡は、このような出産許容性原理について出生が抱える暴力性という観点から、(1)と(2)だけでは不十分であるとして次のように指摘している。

すなわちワインバーグは、「二つの原理を満たしていれば、同意なき出産の暴力性の悪は免責される」と主張しようとしているのであり、「生まれた子どもが将来大人になったときに自分の誕生を振り返って、親が自分を出産したことにまったく同意できないと主張する可能性がたとえあるとしても、二つの原理を満たしてさえいれば、同意なき出産の暴力性の悪は免責される」と主張しようとしているのである。

ただしそのためには、この二つの原理だけでは足りないと私は考える。なぜなら、生まれた子どもが実際に「生まれてこないほうが良かった」と親に問うたときに、親はそれに対応しなければならないからである。これはワインバーグの「モチベーション制限」に潜在的に含まれているとも考えられるが、私は明示的に第三の原理として独立させるほうがよいと判断する。これを暫定的に「応答責任原理」と呼んでおきたい¹⁰。

森岡は同意なしに出生させた代償は(1)の子供に対し慈愛を持って育てる行為だけでは免責されるとは言えず、その代償は行為だけでなく、子供のそうした訴えに応えることが必要であると主張する。その上で森岡は出産許容性原理に付け足す形で3番目の原理を提唱している。それが以下の「応答責任原理」である。

(3)「応答責任原理(Principle of Responsibility)」

親になろうとする者は、生まれた子どもが誕生否定の考えを抱いて親に「なぜ自分を産んだのか」と問うたときにその問いに真摯に応答していく、という決意を持たなくてはならない¹¹。

ただし、森岡自身もこの応答責任原理をもってしても同意なしに出生させられるという暴力性を根本的に免責するとは述べてはいない点に注意する必要がある。応答責任原理を含め、出産許容性原理はあくまでこうした子供を作るという暴力的な行為をそうした行為に真摯に向き合うことでどこまで許容することができるかといった点に終始しているのである。

ここまでチャイルドフリーを中心に生み出すことを許容することの難しさについて論じてきた。チャイルドフリーは自発的(voluntary)な行為によるものであり、出産許容性原理に従って責任を持って自発的に子供を作る行為を否定するわけではない。チャイルドフリーに従って子供を作らないことを選択することと出産許容性原理に従って子供を作ること選択することとは、子供を作ることに慎重な姿勢を貫くという点で表裏一体の立場であり、ベネターを中心としたすべての出生を否定する反出生主義とは異なる観点から1人の人間を生み出すことの実存的な難しさというものが明らかとなったように推察される。ベネターの理論では人間が存在することの苦しみが子供と親とが切り離された形で論じられがちであったが、1人の人間を生み出すということは誰かが親になるということであり、この原初的な加害の雛形である親という存在により焦点を当てることは「生み出すこと」に関する諸課題をさらに深く検討していく上でも重要な視点である。

¹ Rachel Chrastil 「Not having kids is nothing new. What centuries of history tell us about childlessness today. 」『 The Washington Post 』 2019 年 9 月 5 日( 2021 年 1 月 12 日閲覧)
www.washingtonpost.com
² Corinne Maier 、 No Kids: 40 Good Reasons Not to Have Children (English Edition) “ “[Kindle版](Emblem Editions 、 2009) 、 第 1 章第 1 段落( 本論では原文の日本語訳 を引用として記載し、原文自体の引用は省略している。また Kindle 版はページ数が存在せず、同じ個所であっても閲覧する端末によって位置 No. が異なって表示されるため、本論では Kindle からの引用は、 引用箇所を章と段落で示すこととする)
³ 同書 、第 2 章、第 1 段落
⁴ 同書 、第 12 章(タイトル)
⁵ 文部科学省「子供の学習費調査」 2018 年度( 2021 年 1 月 12 日閲覧)
www.mext.go.jp
⁶ 同書 、第 39 章、第 5 段落
⁷ Rivka Weinberg 、The Risk of a Lifetime: How, When, and Why Procr eation May Be Permissible "(Oxford University Press 、 2016) 、 p.6
⁸ 同書 、 p.176 (訳は森岡正博『リヴカ・ワインバーグの出産許容性原理について 生命の哲学の構築に向けて(11) 』『現代生命哲学研究』第 9 号 ,2020 年 ,p.83 を参考にした。)
⁹ 同書 、p.179
¹⁰ 森岡正博『リヴカ・ワインバーグの出産許容性原理について 生命の哲学の構築に向けて(11) 』『現代生命哲学研究』第 9 号 、2020 年 、p.85 2021 年 1 月 12 日閲覧)
http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei202005.pdf
¹¹ 同論文 、p.85