虐待された子供に向ける敵意

自慢ではないが、いや自慢だが僕の彼女はモテる。


今月は電車内で3人の男性から「いつも電車でお見かけしていました」とナンパされたそうだ。なかには名刺を手渡そうとしてきた者もいるという。その他、小さなことをあげたらキリがない。「モテたい」だなんてよく聞く願望だけれども、自分の興味ない不特定多数の人間から向けられる好意ほど気持ち悪いものもないといつかのどこかの安楽岡花火が言っていたようにいざその願望が叶ったら些か面倒なステータス、属性であると個人的には思う。


とはいえ仮に失敗に終わったとしても相手の気持ちを尊重し、素直にきっぱりと諦めるのであればナンパという行為は一般常識を弁え法律以前のルールを守る良識のある行動の範囲内とも思っている。だから彼女に好意を抱いた男性を敵視するような気持ちはない。要するに「申し訳ないけど今は僕の彼女なんです。もちろん『僕の』とは申しましたが、この『の』は所有の『の』ではないことを弁えています。そしてできればこのまま一緒にいたいけれども彼女が僕の元から離れるというのであればぼくもあなた方と同じように潔く身を引く所存です。それでは失礼いたします。」という面持ちでいる。だがこれとは対照的な人間もいないことはない。そういった存在を表すものとして真っ先に挙げられる代名詞は「ストーカー」なのだろうが今回はそれではない。彼女とストーカーに関する話もないわけではないが今回は記述しない。それは「虐待あるいはそれに準ずる行為を被ったことにより健全な成長が阻害されてしまった被虐待児の小学生男児」である。


彼女は発達心理等の研究目的で時々小学校に赴いては児童(特にADHDアスペルガーといった障害を抱えた児童や被虐待児など)と関わったりしている。そして今回彼女は被虐待児の男子児童からいわゆる「試し行動」といわれるような行為を受けることとなった。「試し行動」とはここでは詳しく述べないし、そもそも発達心理に関する知見も持ち合わせていないので各々で調べてほしいが、一般的には子供がこの大人は自分にとって信頼に足り得る存在なのかどうかを様々な行動(わざと大人を困らせるような行動や危険な行動など)を通じて確かめるといった行為を指す。これは虐待の有無にかかわらず、幼い子供なら誰でも行うものである。ただし虐待を受けた子供の場合は、それが比較的高い年齢でも現れたり、また親や保護者等の影響から性的な試し行動を伴うこともある。同級生の女の子に威圧的な行動をとる一方、男の子に対しては平身低頭だったりするその男児は「試し行動」を通じて彼女の胸を揉んだり、終いには頬にキスをしてきたそうだ。


そう、おねショタとか言ってる場合ではない。僕はこの餓鬼に明確な敵意を抱いてしまった。それでも僕は虐待を受け命を落としてしまった子供達に憐みの思いを持っていたはずだったのだ。しかしそれは結局のところ、ニュースを通じて伝えられる被虐待児は要するに劇のキャラクターに過ぎず、大衆の涙を誘う存在にすぎなかったからなのだった。父親の虐待の末に死亡した小学四年生の女子児童のことを覚えている者はいこそすれ、母親と内縁の夫から虐待を受け、正座の姿でじっとしている写真が印象的だった三歳児の女の子のことを覚えている者はもはやいないだろう。劇のキャラクター相手ならいくらでも泣いてあげられるし悲しんであげられる。なぜなら自分と関係がないから。虐待によって命を落としてしまった子供たちをニヒリズム唯物論、厭世、諦念といったくだらない文字を並べるための材料にしていただけで僕は彼らに思いを馳せていたわけではなかったのかもしれない。


今回の男児も好きで虐待あるいはネグレクトといった環境にいるわけではないし、その結果形成された人格や性格といったものは還元すれば彼の責任ではない。しかしながら彼を彼たらしめているのはそうした人格にほかならず、であるのならば彼が彼として存在するためには虐待を受けなければならないのかという深淵を覗きかけてハッとする。点と点をいくらつなぎ合わせてもぼくと被虐待児が線で繋がることはなかったのに、間接的であれ自分を含めたわずか三つの点を繋ぐだけでぼくとその男児が線で結ばれた瞬間、ぼくがまず発露した感情のそれは敵意といったものに相違なく、同情や赦しといった類のものではなかった。


おっぱい揉んだとか許せない。ほっぺにチューとか許せない。お前の生い立ちなぞ知らない。でも安心して、全部上書きしておいたから。