走行距離10万キロの熟女風俗店

主夫という存在になってそろそろ1年が経つ。別に主夫は大変と言うつもりはないしシャドウワークの理論に乗っかるつもりもない。なぜなら私には子供もいなければ育児に子育ての必要もない。これではイヴァン・イリイチ先生に合わせる顔がないが、子なし主夫にシャドウワークなどという概念は存在しない。食事なんて1人分作ろうが2人分作ろうが労力は大して変わらない。尤も1人なら「食事」など作る必要もないのだけれど。掃除は少し面倒だ。しかし人間慣れてくれば掃除機も当たり前にかけるようになり風呂掃除もいやいやながらこなすものだ。


一方で主夫でいる時間が長いと社会との距離感というものは自ずとできてしまう。そもそも社会とはなにかについては後で触れるとしてその距離の如何によっては「主夫(主婦)の仕事は年収1000万円の価値がある」といった世迷い言を信じてしまうといった弊害も生じてくるのだろうと考える。そういった意味では影ではない光の当たったワークとやらも適量摂取することが好ましい社会との距離のとり方なのであろう。そんなこんなで最近新しいアルバイトを始めた。時給は最低賃金の一の位を切り上げたもの。名実ともに底辺労働といって差し支えないだろう。


仕事内容はレンタカー会社の営業所での洗車、給油、回送業務である。客に貸す前の車をキレイにし、出発する客に説明をし、帰ってきた車に給油し、必要な車を必要な場所へ運んでいく。その繰り返しだ。平日は法人の利用が多い。朝から営業先や取引先へと向かっていくサラリーマン達。勝手知ったる人たちなので説明は最小限で済む。皆、車に乗り込むと足早に駆けていく。土日祝は大学生グループやカップルが多勢を占める。適用する保険の種類で悩んだりナビの設定を長々としたりと出発まで法人の5倍は優にかかる。世の中にはいろんなカップルがいることを知る。


そうやってレンタカー会社の車たちはサラリーマンからカップルへ、カップルからサラリーマンへと毎日いろんな人を運んでいく。そうすると今度はなんだか車たちが風俗嬢に見えてくる。僕は汚れた車に掃除機をかけ、ボディを洗い、窓を拭く。今日も一日おつかれさま。また明日も知らない人を知らない場所へ運んでね。ウォッシャー液も補充したので泣きたいときはいつでも泣いていいよ。なんてことを考えながら洗車しているとデリヘルの仕事も面白そうだなと思ってしまう。でも妻の仕事はそれと掛け値なしに対極に位置しているので難しいのかなとも考える。


さっき社会という単語を取り上げたがそうやって社会と適切な距離感を保っているとまことに「社会なんてものはない。あるのは個々の男たちと女たち、家族である」と感じる。株価指数がピコピコ動いてるのを部屋にこもって見ているだけでわからない無数の人々の関係性の糸が浮かび上がり「社会、完全に理解した」と一人勝手に納得している。営業所の産業廃棄物を回収しに来る人がおり、車の整備を請け負う整備工場の人がおり、事故の代車がほしいと連絡をくれる損害保険会社の人がおり、それぞれがどこかの誰かとまた別の関係性を持っている。


このダイナミズムはおいそれと止められそうにないらしい。とりあえず今のところは端の方ですみっコぐらししていようと思う。どの道やりたいことは一つくらいしかないのだ。そのためにも産業廃棄物のリサイクル業者の人に迷惑をかけないようごみの分別をちゃんとしようと思った。


「てめらばっかりが物語りの主人公になれると思うなよ。この世にはいろんな職業があるんだ」