ミックスフライ定食小うどんセット

最近読んだ本の感想をぐちゃぐちゃにまとめました。

ベルクソンは道徳と宗教の二源泉において人間が社会生活を送ることはアリやミツバチが形成する社会と同様に本能に結びついたものであると考えている。つまり我々は本能として社会的に生活を営むことをいわば命じられているのである。ただし人間がアリやミツバチと同じだと言っているのではない。これらの虫の社会は虫たちが意識せずに社会を形成し統制しているのに対して、人間は原始的な部分では本能として、それ以外の部分では時代や文化によって具体的な社会を知性によって形作っていた。知性によって社会を形成することで昆虫などの生物とは比較にならないほど高度に発展した社会を作りまだそれを維持しているということだ。しかしながらその知性をいわば悪用するような形で社会を脅かしたり、独裁というような強権を生み出すこともできるということも忘れてはいけない。そうした一種の危険性をある程度防ぎ、社会の結束力をより強固なものにするために必要となってくるのが、「道徳」と「宗教」なのであるとベルクソンは述べている。そしてベルクソンは、この「道徳」と「宗教」をそれぞれ閉じたものと開かれたものに分類し、合わせて四つの道徳と宗教があるとといたのである。それではこの閉じた社会における道徳、宗教と開かれた社会における道徳、宗教は具体的にどういった性質を持っているのだろうか。閉じた社会における、「閉じた道徳」とは社会の成員である我々がそれぞれの役割に服しそれを全うすることである。例えば本文にもあるように「善き夫」、「善き妻」、「善き市民」、「まともな労働者」といったようなものである。このような役割は普段私たちは何気なく行なっている。特に意識したことはないだろう。こうした役割をベルクソンは「社会的習慣」とよび、このような習慣が我々を社会の一員たらしめているとしている。つまり犯罪者と呼ばれるような人たちも「罪を犯した者」という一種の役割に服することで社会から断ち切られずにいるのである。そして 「閉じた宗教」とは閉じた道徳をまとった社会に対し加えられる知性的なものといってよいだろう。具体的には神話などの物語、あるいは祈りや儀式と言ったその社会の文化や習慣を具体性を持って社会にもたらされるものである。一方で開かれた社会における、「開かれた道徳」、「開かれた宗教」とは閉じた宗教におけるある種強制的な祈り、儀礼とは異なり社会に属する個々の成員が自らの心によって行動し人々と繋がりあうということである。要するに心と心の結びつきであり、 愛や情動と一般的には言われるものである。このようなつながりは前述のような強制力を持ったような繋がりとは異なり愛や共感の力、具体的にはイエスの説いた普遍的犠牲愛やその教えから生まれたキリスト教と言ってよいだろう。しかしながらここで注意しておかなければならないのは、ベルクソンは我々の歴史が閉じた道徳から開いた道徳へと徐々に移行していったと述べているわけではない。 ベルクソンは道徳概念の代表格でありかつ重要な概念のひとつとして正義をあげているが、こうした正義はゆっくりと形成されていったわけではないということである。つまり、天秤によって表現される閉じた正義(相対的正義)から交換も労役も含まぬ正義( 絶対的正義)への移行(飛躍)は漸次的に進むものではなく、”特定の個人”から始まり、他の人がそれに同意する形で達成されるというものである。それゆえ絶対的正義への移行に向け、特定の個人から始まったものの、他者がそれに同意することがなかったあるいは多くの同意を得ることができなかったため最終的には「閉じたもの」として終わってしまった正義(道徳)も数多くあるとベルクソンは述べている。一例としてはストア派の教説などがそれである。これらは跳躍(飛躍)が欠けていたため「開いたもの」へ至ることができなかったとされている。


ではベルクソンの言う「閉じた道徳」と「開いた道徳」との違いを一言で言い表した「飛躍(跳躍)」とは一体どのようなものなのだろうか。ベルクソンは開いた道徳の代表例としてのキリスト教と対比する形でストア派の教説を閉じた道徳であるとしている。すなわちストア派の教説には飛躍が足りなかったということである。 ストア派とは本来、ヘレニズム哲学の一学派でキティオンのゼノンが創始した哲学である。アパティアと呼ばれる情念や感情に左右されない超然とした境地を目指し禁欲主義を提唱した。 古代ローマの皇帝であるマルクス・アウレリウス・アントニヌスも著書「自省録」にてストア哲学を色濃く反映した思想を展開している。 一見するとストア派の教えも開いた道徳のように思えるがベルクソンがそうではないとしたのは何故なのだろうか。これは他者の同意が足りなかったことが大きいのではないかと思う。 確かに紀元前300年頃に創始された思想がその後400年以上若干の形を変えつつも保たれ続けたことは賞賛に値するが、一方でストイックの語源ともいわれるような禁欲主義的な教えは皇帝のような一般的な市民とはあらゆる意味において性質を異にする存在にとっては共感できるのかもしれないが、その他大勢の市民あるいは奴隷にとってはある種無用の長物であったことに由来するのではないだろうか。 ここで「自省録」の一節を引用してみよう。

主人から逃げ去る者は脱走者である。ところが法律は我々の主人であり、法律にもとる者は脱走者である。また万物の支配者の定めたところによるあることが起こったこと、また起こりつつあること、または将来起こるであろうことを心よしとせず、悲しんだり、怒ったり、怖れたりするものも同様である。その万物の支配者というのは法律であって、これが各人の身に起こることを定めるのである。したがって怖れたり、悲しんだり、怒ったりするものは脱走者である。(10巻25)

このようにストア哲学の運命論的な世界観における悲観することの無意味さといったものを皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスは述べている。 確かにこうした運命論的で決定論的な思想は皇帝のようなあらゆる意味において秀でた人間にとっては自分はなるべくして皇帝になったのだという根拠とも言うべき有利な裏付けとみなすこともできるかもしれない。しかしながら当時のローマにおけるローマ市民ではない奴隷や剣闘士などにとってはそれらを信じるにはあまりにも不都合であり、また悲劇的と言わざるを得ない。言うまでもなく皇帝の数よりも、一般的な市民あるいは奴隷階級の人間たちの方が数として多いことからもこうした思想が万人の支持を得ることなく、閉じた道徳から飛躍できなかったということは納得できる部分も多いのではないだろうか。またストア派のみならずヘレニズムの哲学全般というものは、こうした他者の同意が得られなかったために閉じた道徳に終わってしまったということが共通していえるのではないだろうか。 例えば精神的な快楽、アタラクシアを説いたエピクロス派はストア派と対照的な思想を展開したが帰結はストア派と同様であった。ストア派と異なりエピクロス派は世界は神に干渉されることがなく偶然に支配されるものだと見なした。つまりある種の無神論的な世界観に依拠した思想を展開している訳だがこうした思想は、例えば自分が死んだ後どうなるかといった問いに関して希望的な答えを導くことがないために往々にして万人の同意を得ることができなかったと言えるだろう。実際、エピクロス派の創始者であるエピクロスはメノイケウスに宛てた手紙において「死」についてこのように語っている。

また、死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。それゆえ、死が我々にとって何ものでもないことを正しく認識すれば、その認識はこの可死的な生を、かえって楽しいものとしてくれるのである。(メノイケウス宛の手紙 Ⅰ美しく生きるための基本原理 2死)

一見すると唯物論的な死を語っているに過ぎないが、今ある生を肯定的に捉えていることについてはニヒリズムに陥ることなくアタラクシアを求めているエピクロスの姿が見てとれるだろう。しかし一方でこうした死生観は当時の人々にとっても受け入れることが容易くなかったように思われる。なぜならば死ねば全て終わる、無に帰すと言った思想を信じるよりも死ねば素晴らしい世界へ旅立つことができると言った世界観を提供する思想に傾倒した方が合理的であるとも言えるからだ。死後に何があるかを探ることは死ななければできないことは自明であることからも不確実性の強い事柄に関しては自分にとって都合のいい事柄を信じることが一般的である。またそうした思想が万人の同意を得るということにもつながっていくことになるだろう。それゆえにエピクロス派もまた他者の同意を得ることができず飛躍につながることができなかったのだ。思うに「飛躍」というものはあえて擬人化するならばある種の英雄的要素を持ち合わせているものだといってよいだろう。つまるところ英雄を英雄たらしめるには第三者による主観がその幅を利かすといってもよい。彼ら傍観者によるレスポンスこそが英雄的存在を高みにも上げ、また地にも貶めるというわけだ。


一方でベルクソンは英雄的性質を兼ね備えた「飛躍」が欠けていたため「閉じた道徳」にとどまってしまったストア派の教説と対比し「開いた道徳」へと至ることができた代表例としてキリスト教の道徳を挙げている。たしかにキリスト教はそれまでの宗教からあらゆる意味において飛躍していた。ユダヤ教のように律法によって厳しく戒められた宗教や生贄やシャーマンを必要とするような呪術的な宗教や信仰から文字通り飛躍しているのである。それはイエスの説いた「愛」にすべてが込められているといってよいだろう。イエスの教えである「愛」の特徴を一言で言い表せばそれは「普遍的犠牲愛」であろう。イエスの愛は特定の人に対する愛を示したわけではない。そしてそれは家族や同胞、同じ民族や国民に対してというものでも不十分である。なぜならイエスは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と説き、さらに敵をも愛せとも説いたからだ。こうしてキリスト教は「~してはならない」といったユダヤ的な律法主義から「飛躍」し、互いに愛し合うことを新しい掟とした。この教えはそれまでの呪術的な宗教とも異なり、生贄や捧げものといった制度を否定し、魔術師や祈祷師といった存在も否定し、教えによって救いを説いた。またこうした愛はカントのいう定言命法よろしく、見返りを伴わない愛であった。「~だから愛する」というものではなく、ただ「愛する」ということである。あるいは物々交換で言うところのギブアンドテイクの関係性に見られる他者に対する施しとそれに伴う同等の返礼という行為からブレークスルーを果たし、返礼(見返り)を伴わない贈与(隣人愛)を教えとすることでキリスト教はそれ以前の宗教から大きく飛躍することとなった。先に述べたように、このような「開いた道徳」への飛躍は特定の個人によって行われた(この例ではイエスがそれに該当する)だけにとどまらず、その飛躍が多くの者に同意され、 支持されなければならない。つまりキリスト教は他者の同意という意味においても飛躍を達成することができたといえよう。もちろん原始キリスト教の成立から現在に至るまで、キリスト教の文脈における開いた道徳、絶対的正義への道のりが一直線の右肩上がりであったと言いたいわけではない。そうした途上には例えば異端審問による処刑など道徳に反することがらが転がっていた。キリスト教の道徳は絶えずそれらを克服しながら今なお飛躍の途上にあるといってよいだろう。そうした克服の一例としてルターやカルヴァンに代表される16世紀の宗教改革などがそれにあたるのかもしれない。信仰が形骸化され、 神の恩寵にあずかるため教会あるいは教皇に対してどれだけ報いたかが重要視され、贖宥状を購入する行為義認による救済がまかり通っていたことに異議を唱えたルターやカルヴァンはある意味ではさらなる開いた道徳への飛躍における特定の個人と言って良いのかもしれない。


ところで現代に生きる我々の価値観や道徳観念などの多くはこうした飛躍を伴ったキリスト教によって形作られていることについて普段意識することはないし、 知らないうちに味の染み込んだ大根のように我々の意識に深く根ざしている。 例えば弱者に対して施しや救いの手を差し伸べることを肯定するような価値観もキリスト教あるいは良きサマリヤ人の教えに代表されるようなイエスの教えから生じるものなのかもしれない。遠藤周作の著書「深い河」ではこうした道徳観念を擬人化したような大津という人物が見返りを求めずガンジス河に向け歩みを進める死にゆく人々の手伝いをしていた。一方でこうした価値観が本当の意味で開かれた道徳であり、また絶対的正義であるかどうか懐疑的になってしまうことは誤りではないだろう。ベルクソンは交換も労役も含まぬ正義を絶対的正義として規定している。 その絶対的な正義とは完全な人間性の実現を重ねていくことでできていくとされている。しかしながら完全な人間性とは一体何だろうか。愛するという道徳観念の具体的な行為としての「弱者に対する施し」が完全な人間性の一片であることは一見すると確からしいように思えるが、それはその行為がなんとなく正義でありなおかつ善であるようになんとなく思えるからにほかならない。しかしその行為はなぜ正義であり善であるか。 本当に正義で善と言えるのか、もしかしたら悪なのではないかという見方もできるのではないだろうか。

フリードリヒ・ニーチェは著書「アンチクリスト」で「神は世の中の弱い者を、世の中の愚かな者を、軽く見られている者を、お選びになる」というパウロの言葉によってこの言葉に示されているような多くの不健康でろくでもない多数者の人間によって支持されてしまったためにキリスト教は勝利したと糾弾している。また信仰とは何が真理であるか知ろうとしない態度であるとし、キリスト教の僧侶たちは人々を病気にさせるものを「善」であるとし健康にさせるものを「悪」であるとしたと述べている。 さらにキリスト教の言う万人が神の前で平等であるといった思想も誤っているとし、優秀な人間が支配を行うことは自然の摂理であり同時に人間が区別されていることは自然なことである。故に人間が区別され序列によって権利が不平等であることはむしろ社会を維持していくために必要なことであるとも述べている。このようにニーチェの文脈で絶対的正義を兼ね備えた道徳あるいは完全な人間性の実現というものを考えた場合、キリスト教の道徳では対応しきれない部分ないしは相反する部分が多分に現れてくるはずだ。弱者や凡人は弱者あるいは凡人であるから弱者であり凡人なのであり、それらをそのままにしておくことが正しく、弱者を支配する少数の支配者による不平等こそ平等であるとするならばキリスト教の道徳はこの意味において誤っていると言わざるを得ず、同時に「絶対的」であるとみなすことはできなくなるだろう。すなわちキリスト教の道徳もベルクソンの言う開かれた道徳であることは疑いようがないが、ただ一つのという意味での「絶対的」正義であるかどうかについては些か疑問が生じてくるのかもしれないということである。つまりこれらを総合的に解釈するならば、現代に至るまでの絶対的正義の「飛躍」の歴史は「完結」といったものは現在のところなく、未だ道半ばと言う見方が正しいと言えるのではないだろうか。

さらにこれまで述べてきたような「道徳」という観念は健常者(何をもって健常というのか難しいところだが、ここでは健常でない者と対比した際の対概念という消極的な意味における「健常」者というべきだろう。しかしながら「健常でない者」という言葉を持ち出した時点ですでに堂々巡りなのだが敢えて深く考えないこととする)の文脈においてのみ機能する限定的な行動原則なのではないだろうか。児童精神科医の宮口幸治は著書「ケーキの切れない非行少年たち」にて自身が勤務していた医療少年院に収容されている少年たちの認知機能や行動原理ついての考察や実体験を記している。同書では窃盗や傷害事件などを起こす非行少年の中には知能指数が軽度知的障害あるいはボーダーラインに該当する少年が多く、同時に認知機能や感情統制、対人スキルに問題がある場合が多いと記されており、幾何学図形の集合体を正しく模写することすらできない少年もいると記述されている。認知機能とは五感を通じて外部環境から情報を取得し、それらを脳内で整理しさまざまな計画を立案、判断、実行する過程において必要な能力でありすべての行動の基盤である。彼らはこうした認知機能に問題があることによって日常生活に支障が生じ挙句の果てに犯罪を犯してしまう。同時に正しい認知がなされていないため自らが引き起こした犯罪に対する反省ができない、少年院に収容されている自分の立場が理解できていないという図式が成立するのである。彼らはベルクソンのいう閉じた道徳における「罪を犯した者」という役割に服することもできない。このような事例を前にしたとき彼らをも包含する社会的習慣、絶対的正義、開いた道徳とはなにものだろうか。彼らもれっきとした人間、ホモサピエンスである。彼らを人間でないと断罪し人間の範囲外に置くことで絶対的正義や道徳の適用を免れるようにすることは不可能だ。仮にしようとしたところできっぱりとした境界線などあるはずもなくどこまでも続く小数点以下の数字、空に浮かぶ虹のグラデーションのように認知機能の序列が生まれるだけに過ぎない。絶対的正義と銘打った以上は絶対的なものがどこかに「在る」必要がある。「絶対的正義はたしかにある。しかしそれは現象界にないだけだ」と髭を生やしワインを嗜みながら少年愛を語るおじさん達に言われてしまえばそれまでなのだが、われわれのような自身を健常者だと思い込んでいる主体が思い込んでいるある一定の法則性、限定的な普遍性を兼ね備えた思考・行動パターンを正義であると道徳であると呼んでいるだけではないのか。やはり「健常者」であるうちに答えを出すのは性急すぎる。いちど狂ってみてからでも遅くないはずだ。しかし狂おうと思っても狂えないし仮に狂ったら認知機能に問題が生じるため道徳や正義らしきものを語ることもできそうにない。



最近読んだ本(一部だけを読んだものも含む)
ベルクソン「道徳と宗教の二源泉」平山高次訳 岩波文庫
マルクス・アウレーリウス「自省録」神谷恵美子訳 岩波文庫
エピクロスエピクロス 教説と手紙」出隆、岩崎允胤訳 岩波文庫
竹下節子キリスト教の本質 西洋近代をもたらした宗教思想」 ちくま新書
ニーチェキリスト教邪教です!現代語訳『アンチクリスト』」適菜収訳 講談社+α新書
遠藤周作「深い河」 講談社文庫
宮口幸治「ケーキの切れない非行少年たち」 新潮新書