山に登りました

唯物論無神論に傾倒したいのは「高次元の存在を否定したい」からなのではないかと最近思う。高次元の存在、具体的には「神」に代表されるようなものであるが、親や上司、先輩、先生、兄、姉といった存在もそれに類するものだろう。そして僕にとっての身近な高次元の存在、それは幼少期の母親だった。ポテトチップスやジュースの類を禁止されていた当時、人から勧められて飲んだオレンジジュースの罪悪感から思わず泣いてしまったことを思い出す。高次元の存在から発せられる戒めは人々を強く縛る。ではそうした戒めとそれを履行しなかったことによる罰とは何ものか。


有神論的世界観(ここでは高次元の存在がいる世界観といったほうがよいかもしれない)において禁じられたことをしてしまうことは罪である。これは無神論的世界観ではアポステリオリな存在である法(律法)が有神論的世界観ではアプリオリなものとして扱われていることに起因する。そして後者の法は様々な「解釈」が可能である以上、前者の代表格である刑法といった分かりやすい近代的な法律と異なる。殺意を持って人を殺せば一定以上の刑罰が下るといったような個々人の解釈可能範囲の狭さ、定められた罪以外は罰せられることのない罪刑法定主義の明白さとは一線を画すのが有神論的世界観の法である。この法は、たしかに「~してはならない」といったような戒めが定められている一方で、それに対する明確な罰が明文化されているわけでは必ずしもなく、ただ大雑把に裁きを受けるといったような「脅し」でお茶を濁されている。


そして創造神である神とその神の創り出した律法に対するアナロジーとしての創造主である母とその母の創り出した戒律という関係性を見出すや否や、僕はたちまち享楽受容に対する「仕打ち」を想起してしまうのである。オレンジジュースを飲んだからといって罰が下るとは俄かには信じがたい。もちろんオレンジジュースに含まれる果糖を過剰に摂取したことによる糖尿病などの各種疾患への罹患という因果関係を取り上げることもできるだろうが、それはむしろ因果関係のはっきりしたリスクとリワードであり前述の刑法のようなものだ。ここで述べていることは因果関係のはっきりしないあるいは存在しない「仕打ち」を指す。「オレンジジュースを飲んではならない」という戒めは戒めとしてだけなら理解できる一方で、これこれこういう理由により飲んではならないという図式として理解することはできない。故に一度この甘美な果実の絞り汁が口蓋に流れ込むと説明のつかない罪悪感に苛まれてしまうのであった。尤も今オレンジジュースを飲んだところでこのような苦しみを味わうことはないのだが、享楽受容に対する因果関係の存在しない罰を気にしなくなったわけではない。


おひとりさま、ソロ充、未婚化、少子化の時代とは言うものの、街を歩けば手をつないでいる仲睦まじいカップルがすぐ目に付くし、真ん中に子供を据えて3人で歩幅を一にする家族を見ないということもない。彼らはこのような生物としてのプリミティブな享楽を享受することに一抹の不安や恐れを抱いたりはしていないのだろうか。もちろんこのような享楽は突如として眼前に現れた僥倖などではなく、あらゆる策を講じ、いわゆる「努力」をしてきた結果としての幸福なのであるとするのであればそうした感情を覚えることはないのかもしれない。しかしながら一個人がモテる側なのかあるいはモテない側なのかは、幼稚園で自然体でありながら女の子に勝手にモテモテな男児を例にとれば「努力」が通用する範囲などごく狭いものであるとわかる。それが相思相愛イチャラブセックスという理想形に近ければ近いほどなおさらである。享楽受容への耐性が乏しく、さらに「努力」による幸福の獲得とは対極に位置する僥倖を突如として受け取ることとなった僕は気づくと相手の御実家へ御挨拶に向かっていたのであった。罰のない享楽なんて存在するのだろうか。


お義父さん、私が今からあなたのことを「お父さん」と呼ぶので、あなたは「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない」と一喝し、手元の短刀で私の右手小指第二関節を切断していただけないでしょうか。