たちまち魂は天国に

今現在プロテスタンティズムについて得た知識と疑問をここに残しておく。

マックス・ウェーバーは近代資本主義の発達は逆説的に禁欲的な生き方を是とすることを重んじたプロテスタンティズムの禁欲的エートスに遡ると論文に認めた。すなわち宗教改革の過程においてルターによって天職(beruf)概念を獲得し、カルヴァンにおいて世俗内的禁欲精神を獲得したことが近代資本主義の萌芽となったということ。プロテスタンティズムの禁欲は中世における修行僧のような禁欲とは質を異にするものだ。つまり「祈りかつ働け」の働けがより世俗的になり、修道院の中で畑を非効率なやり方で耕したりすることは働いていないことと同義だとするようなものであった(この説明はあまり正しくない)。語弊を恐れず現代に即して言うなら長時間雑巾がけをして床を掃除するくらいならルンバでも開発して「楽」をするくらいの気概を見せろと、そういうことだ。

しかし一口にプロテスタントといってもそれは一括りにすることはできない。ルターによって始まった(とはいえフスやツウィングリの犠牲を忘れてはならない)宗教改革ルター派を生み出した。しかしこれはカトリックと対立するように見えて対立していない。アウクスブルクの宗教和議においてルター派は公認されたが、それは領主にカトリックルター派のどちらを選択するか可能にしただけで農奴たちに自由はなかった。つまりルター派は政治システム、統治システムの一環としてまさしく機能しており、けして個人の宗教的自由と関わりがあるわけではなかった。そういう意味では改革派と呼ばれるプロテスタントでありながらルター派は「保守」だった。通常ならローマの逆鱗に触れるようなことがあれば破門され、人権を事実上失う。路上で何をされても仕方ない。しかしルターはドイツの有力諸侯によって匿われた。なぜか。結局はお金の問題だった。

当時サンピエトロ大聖堂の改修だのショタ売春(そこまで言ってない)だのに金が必要だったレオ10世は贖宥状を売りさばいていた。正確にはブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の弟アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクが諸々悪事を働いて(黒幕はあいつ)いた。彼が大司教やらなんやらの要職を兼任する(大司教の兼務は禁じられておりおまけに年齢制限に達していなかった)見返りに多額の賄賂を教皇に送った。とはいえ彼自身が金を持っているわけではなく当然彼に貸し付けた輩がいる。そう、フッガー家だ。そしてその借金返済のために贖宥状の独占販売権を得ると各地で売りまくったわけだ。贖宥状の販売者の背後には常にフッガー家の金庫番がいたという噂もある。そんなわけで神聖ローマ帝国をATMとしか見ていない神聖ローマ皇帝の連中やバチカンのクソ野郎共にドイツの有力諸侯たちは怒っていた。奴らがお金欲しさあまり贖宥状を売りさばいているのを黙ってみているドイツのエスタブリッシュメントはいるはずがなかったということだ。すべては経済的、政治的な思惑があったわけだ。その証拠にルターはドイツ農民戦争に反対し諸侯の側についている。

でその後マックス・ウェーバーの言うプロテスタンティズムの倫理を持った宗派が現れてくる。カルヴァンだ。日本人からしたら予定説は理解しがたいとどこかの教授がかつて言っていたような気がする。たしかに「いや天国行くとか地獄行くとかそれもう決まってるから。俺?もちろん天国行きですわ。すまんの。」というカルヴァンの主張に対しどうして「そうか、天国か地獄かは決まっているみたいだけど、それなら神の恩寵に与るために与えられた天職を全うしないとな。日々努力。神に感謝。」というスタンスになれるのか。とはいえこの予定説に対するスタンスが人々を勤勉にさせ、蓄財させ、さらにその蓄財を浪費せず投資させ富が富を生むようになった。富は勤勉の結果であり神のために頑張った証だった。

そういうわけでドイツから始まったプロテスタントのうねりが世界に波及していくわけだが、ドイツで最初に近代資本主義が生まれなかったのはドイツのプロテスタントルター派が古プロテスタンティズムであり、公的であり、保守的であったからなのだと推測することができるのではないか。

それとバプテストと呼ばれる再洗礼派の人たちのようなプロテスタント諸派。彼らは要するに「生まれた直後とか児童の時に洗礼したってそれ自分の意志でもなんでもないから意味なくね?やっぱ自分で信仰するって決めなきゃダメっしょ」という立場をとる人たち。こうしたバプテスト派は政治システムと結びついているわけではない。公ではない、完全に民(完全に民なのか?)。だから教会も自分たちのお金で作らないとダメだし何でもかんでも自分たちでやらないといけない。この自分で運営するっていうあたりも近代資本主義的エートスを探るヒントになるかもしれない。バプテスト以外にも色々な宗派がイギリスやアメリカ、様々な地域で生まれたのでその辺りも詳しく調べないとダメだと思う。

ただし本当にプロテスタンティズムの禁欲的エートスが近代資本主義の発展を促したのか正直いって疑問である。そもそも宗教的教義とそれを信じる一般ピープルの実践との乖離が挙げられる。信者のほとんどは一般ピープルだ。宗教史に載るような天才的な宗教家は指で数えられるほどしかいない。彼らは歴史の主役だが果たしてほんとうにそうなのか。

マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の冒頭においてウェーバーベンジャミン・フランクリンを例に挙げ、これがまさしくプロテスタンティズムの精神の見本なのだよとフランクリンの演説を引用している。がしかし、ベンジャミン・フランクリンの自伝(「フランクリン自伝」)を読んでみるとフランクリン以外の連中はクソ野郎ばかりである。フランクリンが自分をよく見せるために脚色しているのかもしれない。それはわからない。だがそれを差し置いてもフランクリンを褒めてデカい口約束をして大ホラを吹く知事、金を借りて返さない友人、酒におぼれる奴、女と遊びまくる奴とかなんとかわらわら登場してくる。君達は自由な信仰を求めてアメリカ大陸に渡ってきたキリスト者なんじゃなかったの?いやいや彼らも人間だった。こうなるとますますわからなくなってくる。

そもそも信じるとは何か。

キリスト教にせよなんにせよその宗教の教義をたいして知りもしないのになぜ信じているのか。いや知らないなら君は「何を」信じているのか。わからない。どういうことだ?16世紀に贖宥状を買った連中はたしかにキリスト教徒だった。しかし彼らはキリスト教の何を信じていたのか。当時の平均寿命は低く、子供の死亡率も高かった。死に対する漠然とした不安を解消してくれるにはキリスト教はもってこいだったのかもしれない。だけど自分たちの言語に訳された聖書もなく、ラテン語も読めない、あげくレオ10世に騙される人たちの信じるキリスト教とは一体なんだ。どうも迷宮に迷い込んでしまった感しかない。

以下は吟遊詩人、ハンス・ザックスの詩の一節である。

投資すべきです
いや、あなたたちの助けと義援金によって煉獄から
魂を救い出してやるのです
グルデン金貨がこの箱の中でちゃりんと音をたてれば
たちまち魂は天国に

贖宥状を売りに来たローマの銭ゲバ共の謳い文句だ。人びとは嬉々として寄進した。どうやら500年経った今でも同じ光景をいたるところで見るような気がするのはけして気のせいではないだろう。