ブレーキなし、問題なし

ノートルダム大聖堂が焼けてなお、ゴールドでできた十字架が消失していないことを神の存在証明としてツイートしたカトリックで白人のブサイクな女の子やそれに付随するクソリプを見ているとごくごく一般的なキリスト教徒の神の捉え方が少しわかったような気がした。これまで仏教に代表されるような多神教一神教との世界観は教義の上でもそれらを通じた信徒の世界の捉え方の上でも大きな違いがあるように思っていた。すなわちユダヤ教のように砂漠といった過酷な自然環境や迫害を受けてもなお信仰を守ろうとする意志の強さなどが反映された世界観、つまり試練を甘んじて受け入れ現世的というよりむしろ来世救済的世界観といったようなものだ。尤も、これらは遥か昔の話で少なくとも生存がある一定程度保証されるようになった現代において日々の暮らしで精一杯といった信徒はもはやいないのだが、根底にはこういった流れが残っているものだと思っていた。


しかしながら、(あくまで一例ではあるが)「大聖堂が焼失したのに金でできた十字架は残っている!神様ってすごい!」という捉え方はどうも日本人のある一定年齢より上の世代の言う「仏さま」に似通っているように思えて仕方がない。「仏さま」なんて一口にいっても釈迦そのものを指すのかあるいは如来等の覚者なのか、はたまた自身の家族の先祖のことをいっているのかあるいはそれらすべてを含んでいるのか定かではない(しそんなこと考えてすらいないだろう)が、そうした一般的な自然法則では説明がつかない(今回のように木と金の発火温度の違い等、専門家から見れば説明がつくものも含む)現象や我々の力が及ばない(とされる)領域について畏怖と畏敬の念を抱いた際に自然と発露される「超越」的、「不可知」的存在を「仏さま」と呼ぶ事象と何ら違いはないように思われる。


ともすれば一神教的世界観とはもはや過去のものなのだろうか。往々にして一般信徒にとって宗教とは自分ではどうすることもできない事象について考える、現状を変えようと具体的に行動することをやめ、現況の好転や来世への救済のため一心に祈るという自分本位、利己的、打算的な行為のための道具に他ならず、それは一神教徒であろうと多神教徒であろうと大きな違いはないはずだ。であるならば一神教だけに認められる世界観なんてそもそもまやかしなのではないだろうか。どうも一神教の成立の歴史に迫害や非業の死を遂げた「聖人」の「物語」が多いために厭世的で来世救済的な性質を帯びており、かつ信徒もそうであると考えてしまうのではないだろうか。しかしながら、この国でも姿形を大きく変えたものの広く浸透している多神教も、元をたどれば温暖な気候、恵まれた環境のなか、王子として生まれ酒池肉林に溺れていた青年が「なんかもうこの生活飽きたわ。つーか現実とかクソ。生まれた時点で苦確定じゃん。絶対老いるし病気になるしあと死ぬし。あーもう終わってるわこの人生。」と悟った人物を源流としているわけで、こちらも立派に厭世的で来世救済的であろう。


そもそもである。厭世的で来世救済的思考でないのならば宗教なぞ不要である。なるほど我々が今日、昔ほど宗教を「利用」しなくなったのは基本的に人権が保障され飢える心配もないからだ。逆に多くの人が宗教に頼る時は家族が死んだときぐらいだろう。この時ばかりは深い悲しみ暮れ、この世からいなくなってしまった存在が消滅することなくどこかにいると良い、いるはずだと考えると自ずと「あの世」という概念が成立し、「あの世」に対して祈る行為が生まれるというわけだ。尤も、故人への別れの挨拶を一度で済ましてしまえば楽といった人間社会が長い歴史の中で育んできた効率化という現世的な行為も多分に含まれてはいるわけだが。


そして相思相愛イチャラブセックスが宗教になりえないのもこのおかげである。この行為は厭世的でも来世救済的でもない。果てしなく現世的であり、また相手を必要とする以上、「神」や「仏」といった(人間が想像できる範囲での)高次元な存在と一対一で相対することを困難にさせるだけでなく、既に相手がいる以上はそれで完成しているのであり、そういった存在が付け入る隙はない。つまり相思相愛かつ二体一対の存在は「神」や「仏」を凌駕する力を兼ね備えているといってよい。しかしながら完全な相思相愛は難しい。なぜなら相手の気持ちを知ることは本質的にできないし自分自身の気持ちもまた流動的だからである。とはいえそれはまた宗教も同様である。「神」や「仏」といった存在は我々の時空平面上では各信徒の頭の中、宗教画や像などあらゆる場所、あらゆる形で姿を現す流動的な存在だからだ。偶像崇拝が一部の一神教で禁じられるのもこうしたことによるものも多分にあるだろう。だからこそ人々は文字で「神」の存在を記した。まだこちらのほうが流動的でないからだ。そしてそれは相思相愛イチャラブセックスも同様である。彼は彼女を心の底から愛しており、彼女もまた彼を心底愛しているという前提を文字にして記し、その営みの様子を絵にして固定化すれば本来流動的であるはずの相思相愛イチャラブセックスの性質を変容させることができる。そこには完全な相思相愛イチャラブセックスが描かれており、そこに登場する男女の気持ちが変質することはけしてない。つまりエロ漫画である。


しかし文字や絵も実際のところは流動的だし、それを記した紙や木といった記録媒体も当然流動的だ。結局のところすべては流動的で固定化されたものは何もない。椅子に座ってこの頭の悪い文字を書いている自分も自分では静止していると思っているが、今この瞬間も地球は途轍もない速度で回転しており、また同時に途轍もない速度で太陽の周りを周回しており、さらに途轍もない速度で太陽系をも包含する銀河系がこの広い宇宙を移動している。また逆に超ミクロなレベルでは原子の周りに電子が雲のようにまとわりついており常に流動的である。そして流動的である人間は生、老、病、死といった流動的な事象に恐れをなして固定的で絶対的なものへ憧れを抱く。宗教も相思相愛イチャラブセックスも何もかも、すべては固定的なものへの希望なのだ。だが我々は固定化した存在にはなれない。燃やした骨すら流動的だ。


ノートルダム大聖堂が焼けたからなんだというのだ。
いずれ地球も焼ける。諦めよう、そして今を楽しもう。