古典派消費型オタクのつらさ

今年もコミケが終わった。まあコミケ行ったことないんだけど。


女子アナがコスプレを披露するなどメディアの扱い含め、コミケ及びサブカルの一般化が激しい。だからこそ考えてしまうのだ。消費しかできないタイプのオタクの肩身の狭さを。いつ頃からだろうか「なのは完売」というネタを見なくなったのは。高度な情報戦と称しサークルごとの売れ行きを2ちゃんねるでやり取りし合っていた頃、インターネットにおいてコミケの中心は消費者だった。それが徐々に可愛いコスプレや神絵師のオフパコ(という半分ネタ)にとって代わられコミケの中心は再び技術を持っている側へと移った。せいぜい待機列のタイムラプス映像が見世物としての人気を一瞬博するぐらいか。そして気づく。絵を描けない、コスプレもできない、消費による自己表現しかできないオタクの自尊心を痛めつけるのは実は外野ではなく所属する領域にあるのだと。


ネットは「すごい人」に簡単に出会える。ササっと可愛い女の子を描いてしまう「絵師」、その可愛い女の子に変身してしまう「コスプレイヤー」、ゲーム、作曲、フィギュア、CG、工作、ソフトウェア、挙げたらキリがない。大衆に馴染めないと安住の地を求め行きついたサブカルの地もやはりというべきかヒエラルキーがあるのだ。逃げた末にその地にやってきた持たざる者とその地において日々研鑽し多くの支持を集める指導者的存在。なんだ何処へ行っても自分は落ちこぼれじゃないかと。しかし事態はこれだけにとどまらない。それは大衆と離れた位置にいたサブカルそのものが一般化してきているからだ。まるで自分だけが取り残された気分だ。コンテンツの一般化は即ちそのコンテンツが一般的な趣味のひとつという位置づけになることを意味する。サッカー、野球、音楽、テレビそしてアニメ。すると消費しかできないオタクが口にする「ニワカ」が流入してくる。いや、流入という表現すら語弊があるかもしれない。コンテンツが本来あるべき場所に戻ったのだとしたら流入してきたのはオタクのほうじゃないかってね。いわゆるサブカルを数ある趣味のひとつして消費するだけなら問題はないんだ。「進撃の巨人の最新刊買いました!」というのは消費者のあるべき姿だしむしろ必要な存在だ。問題なのはそれしか拠り所がないのにも関わらず、技術を持ち合わせていないオタクだ。サブカルコンテンツの一般化以前にオタクでかつそのコンテンツを生み出したり、なんらかの二次創作をしたりする技量を持っていないオタク。古典派消費型オタクとでも命名すればいいか、そういったタイプの人間に今、アイデンティティの危機が訪れている。


こんなことを描いていると僕が愛読しているとすら言っていい黒子のバスケ脅迫事件で名をはせた渡邊博史受刑者の意見陳述を引用したくなる。彼はこの世は凄まじい風が吹く世界であるから飛ばされないように固定する糸と錘が欠かせないと言っている。糸というのは自分と他者、社会を繋ぐ紐帯のようなもので〇〇会社の社員とか△△家のお父さんとか要するに共同体における立ち位置、役割のことだ。そして簡単に飛ばされないような錘としてオタク化とネトウヨ化という「薬」の服用を挙げている。オタク化というのはなにもサブカルだけにとどまるものではなく、一般的な趣味も含む。要するに消費行動全般だ。ネトウヨ化というのは字のごとく特定の民族、集団を排斥することで溜飲を下げるといういわゆるガス抜きだ。こちらもネトウヨだけでなく狂信的な安倍批判を繰り返す人たちも当てはまる。


しかしオタク化もネトウヨ化も薬だ。同じ薬でも人によって効き目は様々だ。前述したような古典派消費型オタクが今、アイデンティティの危機に晒され薬が効きにくくなっているのだとしたら。たしかにこのコンテンツは好きだしキャラクターも可愛い。だけどネットの海を見渡せばあちらではキャラクターのファンアートが描かれ、こちらではキャラクターになりきるコスプレイヤーが盛り上がっている。対して自分はただコンテンツを消費するだけ。強いて言えば作画についてケチをつけるぐらい。あくまで趣味なのだから自分が楽しめればそれでいいし、二次創作もリスペクトと共感の力をもって受け入れればそれでいいのだが、そう簡単にいくものでもない。渡邊博史受刑者は自身が犯行を企てた理由についてそうした自分の数少ないアイデンティティや社会における自分の立ち位置が黒子のバスケによって脅かされたことによるものであり、決して嫉妬の類のものではないと述べている。自分はただこのコンテンツが好きな住民でいたいだけであって、なにもアニメ監督になったり、声優になったりしたいわけではない。しかしあらゆる事象が自分を住民たらしめることを良しとしないというある種被害妄想的な思考に陥ると似たような苦しみを抱えてしまうのだろう。実際に脅迫という具体的な行為を実行しなくても、そういったタイプの辛さ、逃避の先のコンテンツが本質的に抱える階級構造が消費しかできない古典派オタクがかつて学校で、職場で体験した光景とダブつかせている。


だから声を大にして言いたい。逃避と抵抗の最新系、芸術的センスが問われず消費型などという存在もないデリバティブを含む株式投資というサブカルに目を向けろと。二足の草鞋でいい。いや何足でもいい。サブカル一本足打法だけは回避しろ。金融市場はいいぞ。神絵師のように芸術センスもいらない。コスプレイヤーのようにイケメンであったり可愛い必要もない。金を増やした奴の勝ちだ。金を増やすだけ。なれ合いもいらない。取り巻きなんていない。むしろ取り巻きが損をする様をこの目でしかと見届けろ。買って終わりじゃない。売ることだってできるしなんなら先に売ることだって可能だ。消費型というヒエラルキーの最下層にたらされた蜘蛛の糸を掴もう。あ、でもこれじゃ途中で切れるな。まあいいや。じゃあそういうことで。